2001年の文章 3
どうして友達を作らないといけないんですか?
朝の番組で子どもが大人にインタビューしていた。あれ?これは私が
ボク通で書いたことあるぞ。わーい、パクリかな(んなわけはない)
私の答え「作らなくてはいけないとは思わない」
「ひと」が辛いタイプならばひとりっきりもまたいいじゃないかと思う
ひきこもりで何年も母親でさえ口を聞かない人がPCで見知らぬ人とは
チャットなどで話せるという人がいる。モニターが友達
なぜ世間はそれを否定するのか。彼らの居心地の良いような生き方を
認めてあげたい。友達信仰は幼い頃から刷りこまれる
友達100人出来るかな・・・と。
いじめられてまで友達でいたいのか?春奈ちゃん事件の犯人は
母親仲間をいつしか憎んでいた、が、離れられなかった・・・
人と離れる事は不安な事でもある。嫌われる事、疎外される事の不安
人と接するのは辛い行為かもしれない
そして・・・友達・・・友達とは?敵でもある。
親友と呼ぶその人も自分も「敵」としての核が内包されている
普段見えない粒子のようなものだけど存在する「敵になる可能性」が。
だから逆に敵だと思っている人に親愛の情を感じたり。
友達100人は敵になる可能性100人だ
それはまた、スリリングで楽しくもあるけれどね
負けたくない・・・友達に対してそう思う事はないだろうか?
ライバル(好敵手)と言う英語ではない日本語の「敵」
友達は永遠の敵だ。私には必要な「悪」なんだけど・・・
(ジオでお友達が出来ましたー・・・っていうと
敵が 悪人が 増えたって? 笑 すみません。ゆるしてー)
2001・5・14
サザエさん、とどらえもんを子どもと見ていて気がついた
ワカメちゃんやしずかちゃんの言葉使いだが
「わー、のびたさんえらいわー」というそんな言葉を
今の女の子が使っているはずがない、と思い息子に聞いた
「ねえ、女子はこんな言葉使ってる?」すると即答
「んなわけないじゃん。女子ってこえーよ。言葉なんて
コギャルだってば・・・」そうだろ、そうだろ。
ちなみにクラス委員2名は両方女子だそうだ。おお女帝の時代
考えてみると私の時代でも「わー」言葉など使っていない
古き良き時代の名残がアニメに残っている・・・
でも現代って私は好きだけどな。
2001・5・13
近頃テレビでこんな女が・・・
掃除が出来ない、借金してもギャンブルや欲しいものを買う
セックスに溺れる、といったいかにもな女たち
実は私は別にかまわないんじゃないかと思った。それこそ個人の自由
やりたい事に盲目的(これも差別表現ですか?)に進むことは
それが学問やボランティアなら賞賛されるだろう、が、ギャンブルなどは
非難の的だ。快楽を追求する事の自由は認めたい(迷惑じゃない範囲)
注目は「セックス」 お待たせしました(笑)
トラウマ(幼少の頃イタズラされたなど)のある女性が多かったようだ
彼女は「男を征服したいから」や「やさしくしてくれるから」などなど
聞いているとすごくか弱き女性だと感じた
愛情や自己の確認をセックスに求める、それを私は非難出来ない
愛されたい、必要とされたい、大切にされたい、という願いは切ないものだ
東電OL殺人事件というのを覚えているだろうか?収入に困ったわけでもない
しかし夜毎にナンパ(売春?)していた彼女の真意はわからないが
異性でないと癒されない何かがきっとある。同性の素晴らしい友人でも
腐った異性(あはは 男性軍すみません)にかなわない何かが・・・
注:腐った異性というのは男性が腐っているのでなく
男性の中の「ダメ男」の事を指す。
ちなみにこの文章はヘテロ型(異性愛)の人向きだが
ゲイ(同性愛)やバイ(両方オッケーの方)は対象を変えて
読んでもいいたいことは同じです。まあ、ヘテロでもゲイでも
ガンバローね、ということで。
今のノート 2001・5月
昔の曲を聴いていた。古いテープを選曲して編集
ダンナとふたりであれこれ選ぶ・・・
懐かしい曲。17年経ったのがうそのようだ
私たちはここまできた。あの頃、若かった私たちとどこが変わったんだろう
曲の流れに任せていると そこには22歳の私と21歳の彼がいる
何も変わらない曲 隣の彼の横顔。同じ曲を聞いて感動を共有した時間
時間はいつも味方だった。永遠の若さを疑わなかった
でも時は無情に私たちから若さという一瞬の華を奪う
何も変わらないのに、もう、あの時には戻れない事が私を悲しくさせた
ふたりでいる事が たまに辛い時がある。それは時間に侵食させてゆく何か
去ってゆく何かを惜しむから・・・切ないというのはどういう事かと
問われたらその、寂ばく感だと答えるだろう
自分が老いてゆく、そして、自分の好きな人も老いてゆく
「死」もそうだが「老い」もまた自分以外にも人のそれを見るのは辛いのだ
子どもは1日1日と若さを謳歌する、時間を味方につけて。
それが嬉しいし、そうして自分達は枯れていく事の淋しさ・・・
でもだから思う「この人と老いたい」と。
仲間が欲しかった(犯罪歴のある少女の告白を見て)
思わず私も、といいたくなった。犯罪を犯すよりも仲間を作る方が大事。
それを愚かだと私には言えない。私はいつも「仲間」に飢えていたから。
今だってそうに違いない
ドラマや小説に出てくるような厚い友情や、親身な仲間たちなど
自分の居場所を探す事、人の社会的な帰属本能かもしれない
今仕事が嫌だ。だがどんな仕事でも出来ないことは無い、が
きつい仕事でももしも「仲間」がいるならば、やっていけるのだ
人が孤独なのは知っている。仲間が自分の想像の産物である事もわかる
それでも、探さずにいられないのだ「仲間が欲しい」と。
いない・・・どこにも・・・いない「仲間」がいない
自分は変わっていると思う。粒の揃った集団に加わる気はない
これは、探すどころか仲間をよけているようなものだ
仲間を探す事で余計に増す孤独感。人はみな一人だと知っていても
あなたに問いたい「仲間はいますか」
2001・5・9
昨日来た友達が言っていたが最近の企業では人材を採用する時に
仕事が出来そうかという他に「協調性があるか」を案外重視するらしい
仕事が出来ても柔軟性が足りないとか、我が強いとかのタイプは
やはり周りがやりにくいものだ。
彼女の周りにもデキル人がいるらしいがアドバイスをしても
自分のやり方が一番だと、受けつけないし、コピー取りなんて絶対しない
そう言う人はいるものだ。お茶汲みに入ったんじゃないと
昔の会社で絶対来客にお茶を出さない人がいた。私は仕事をする為に
来ているからメイドじゃないと言い切った
だが、お茶汲みは「仕事」の一環なのだ。
当時(80年代初め)女の自立が叫ばれ始めて、コピーやお茶汲みの拒否が
世間の話題になった頃だった。欧米ではそう言う雑務は専任の係りや
メイド(ガールという?)がいるものだと。
私は欧米式の会社形態は日本では合わないと思っていた
完全な分業制は効率の面でイイのかもしれないが
仕事の流れというモノを壊す危険はあるのだ。
取引先の人に商談後お茶を出す、仕事外の雑談もまた戦略で
そんな時さりげなく第三者がお茶を出す方が「流れ」がイイのだ
もちろんお茶を出すのは男性だっていいけれど、年配の人など
目上をあがめる年齢の人なら年下の人がお茶を出す方が心象はイイ
と思ったのは昔の話。今は?友人は「雑用はやる人はやる、やらない人は
やらないよ」そりゃそうだ・・・・・・・・・
近親相姦について・・・
以前書いた「いけないんだろうか」って事に意見を貰った
文明社会のタブーとしての禁止です、と。いけない話題だとは思ったんだが。
後先を考えずに思うままに、書いてしまうという私の性質がタブーを
「作らない」のだ。文章の上ではいけない事は無い、という・・・・・
私は包丁を持って振り回したり刺したりという、趣味も無いので(笑)
テーマは危なくても、物理的には安全パイ(自分で言う奴は怪しい?)
話は戻って、いただいた意見にあった社会構造の深層の共通項って
多分それは「悲しき熱帯」ではないかな?(レヴィ=ストロース)
違っていたらごめんなさい。(んで、ありがとうございます!)
女性を交換物としてみた場合に交換(外)して初めて
価値が出る、存続できると言う例のです。それが文明社会と未開の地でも
同じであったと言う所から出した結論で、文明社会と未開の文明でも
構造上では同じ事、核の部分では同じだと。木の葉っぱの家に住もうと
オートロックのマンションに住もうとそれはあくまで表層に過ぎない
(余談 うちのホテルの幹部は常に一室を使う。しかし忙しい日には
身内より客を入れろっての。外部に出す事、交換する事で初めて
モノに価値が出るならば、身内で消費する事の無駄さを幹部は
考えろって。ねえ。ああ、こんな例えストロースが泣いている)
だから近親相姦がダメなんだと彼は言っているのではないですよね?
(ち・・・違うかも)
で私が書いたのは古代エジプトや日本の皇室の近親婚は財産(地位・権力など)
を親族内で留めようと言うことで奨励されていたので「いけない」ことでは
無かったのでしょう。しかし社会構造的に言えばそれは(近親婚は)現代の
未開の社会の構造よりも、もっと原始的な社会構造だったと言えるのかな
金ぴかの御殿に住む近親婚奨励の社会よりも、スッポンポンでも
近親婚タブーの社会のほうが文明度は高いと・・・
ふー。何書いてるか自分でもわかっていないので苦情はお手柔らかに・・・
2001・5・7
美人に満足いかない場合・・・
ヘンなタイトルだが、何かのテレビで(これまた番組がわかりません
夜は色々しながらテレビがついている状態なので
番組を決めて見ているわけではないから・・・すみません)
自分の顔を整形したい若い女性が出ていたが。この人が
全然ブスではないのだ。もちろんスタジオでも大反対
彼女は幼い時のコンプレックス(タレントになりたくて
受けたオーディションで可愛い子ばかりだったのがショックだった
らしい)が元で自分の顔に自信がなくなったと言う
道を歩いていてもブサイクな人はどうして生きていられるのかと
不思議に思うほどらしい・・・・・
自分の顔(体さえ)嫌いという感覚・・・・
これはもちろん、彼女の精神上の問題だ
多分彼女は整形しても自分の顔に満足する事はないだろう
さらに時は無情だ。年月が老化と言うものを彼女にもたらす・・・
しわくちゃのたるんだ顔を見るとき彼女はどうするのだろうか?
事故で顔半分以上が傷だらけでしかも、左右がゆがんでいる人がいる
そう言う人を見たとき彼女はどう思うのか?(ちなみに彼は奥さんと
三人のお子さんがいる、立派なパパさんだ)
ふとエレファント・マンと言う映画を思い出す
人は見た目だと言う真実と、見た目ではないと言う真実
真実は一つではない。人の数だけそれはあるのだ
自分の目で見た情報が脳で感知される時そこからは他人には関係ない
自分の世界だ。白雪姫の継母のお妃は鏡に向かって言う
「鏡よ鏡世界で一番美しいのは誰?」お妃さまです、と言う答えに
満足できるなら、それで普通のお女だが鏡を信用できず
割ってしまったり、白雪姫が一番美しいと聞いて自殺したりするなら
自分の脳の自分の容姿への評価が低いと言えるかもしれない
美的コンプレックスも逆に自信過剰も、脳の見せる幻だ
人の容姿はしょせん頭蓋骨の上っ面に過ぎない、と言った人がいる
美的価値観はその人独自のものかもしれない
ただ、人の事を「生きていけないブス」などと言うような考え方は
したくは無い。自分の精神の為に。情けないと思うから。
親が自分の小さいころ「お前は世界で一番美人だね」と親がいった
それは思春期に自分の容姿に悩む時に心のどこかに自信を
ちょっと残してくれた(私は毛深いわ、黒いわでコンプレックス
があった。あのころガングロブームだと良かったんだが 笑)
娘がいる人は毎日言おう。いや、本当に親はそう思うのだ
現に私はこう思っている。世界一のいい男はうちのムスコである、と。
2001・5・6
シャネルという「ひと」
先日テレビでブランドのクイズみたいなのをやっていた
全然興味は無いがシャネルのビン(香水)を見てなつかしく思った
シャネルの香水なんてつけた事も無いが、なぜか昔シャネルの19番の
(シャネルの誕生日の8月19日からつけた)ビンだけ持っていた
近所のお姉さんからビンをもらって大事にしていたのだ
そのビンはすごくシンプルで、シャネルが恋に傷つき立ち直るきっかけ
を与えた男からヒントを得て初めて出来あがったシャネルナンバー5の
命名の謎にもにて、スリリングだ
ココ・シャネルの本を読んだ事がある
謎めいた出生の秘密、数々の恋愛遍歴、年老いてもなお
美しかった人の生み出しつづけた産物は
高価である事は望ましいとさえ思う
(それをお水のネエチャンや高校生が何で持つのだ?
という怒りは別にして。)
シャネルは6歳で母親が死に父親は蒸発した。捨てられたという事実と
それを認め無いプライドとが、シャネルの核を作っていったようだ
美しく、炎のような強い女はみな、孤独だ
自分からよりいっそうの不幸の中に飛び込むかのようだ
傷ついて血を流しながらいっそう輝く魔の花
そして人々はその花に惹かれてしまうのだ
ブランドものには色々な話がある。中には血みどろのいわく付きの
話や、経済戦略などもあるが、ブランド誕生の歴史、創始者の苦労
私はそういう話が好きだ。身につけたいとか欲しいとかは
全然思わないが、彼女たちの情熱や強さには憧れがある・・・
ココ・シャネルの言葉の中で彼女の性格を如実に表すのは
「友達はいない。私には愛しているか愛していないか
どちらかでしかない」線引きのはっきりした性格は
自分自身も追い込む事につながる。それでも妥協せずに生きる事を
私はうらやましく思う・・・
2001・5・5
黄色い新幹線
黄色い新幹線を見た。え?あんなのあるの?
車両点検用だそうだ!わかった!
やさしい人は偉い・・・?
何かで今の子どもの個性について書かれていて個性とは
勉学や運動能力にあらず、とあった
なるほどと思って読んでいると途中「やさしいという事は一つの才能」
とあり「やさしい人は偉い」とあった
何かが引っかかった
やさしい人は好きだ.自分も他人にやさしい人でありたいし
それをベースに思いやりと言うモノが形成されるんだろう、が・・・
やさしい事が才能で偉いのかというとよくわからない
人にやさしくする行為は私の場合2種類ある(他の人は違うかも)
一つは純粋にその人に好意でやさしくする場合
もう一つは自分の評価を有利に運ぶ為のテクニックとしての場合
後者は自分を守るプロテクターになるのだ
強い人はある意味で攻撃対象だが、やさしいと人が認める場合
攻撃が弱まったり、回避される事も多い
楽な生き方を選ぶなと怒られそうだが
攻撃回避型のやさしさは自分の精神安定にもつながる。
攻撃性というのは誰にでもある、もちろん私も。しかし
どう出すか、どう出さないか、は個人差が大きい
出しすぎは他人はもちろん自分自身も傷つく
出さないで我慢しっぱないもカラダに良くないし、爆発が恐い(笑)
上手い攻撃性のコントロールをしたいものだ
だから「やさしい人は偉い」と決められると攻撃性を
否定されたようでどうしたら良いか戸惑うのだ・・・
2001・5・3
同じ日って続かない
ムスコが「同じ日が続かないって、思わない?」といった
どういうことか聞くと「だからさ、今日とか、今とかはもう
絶対来ないって事。1年前とかもう来ないんだよ。そういうのは
なんかさみしいじゃん」うーん。思わず私は云った
「おまえテツガク的だなー」ムスコは「なにそれー」といいつつ
テレビを見ながら爆笑をしていた。もうすでに彼の頭には
さっきの疑問はふっとんでいた。テレビのお笑いにあっさり負けた(笑)
私は逆に考えちゃったのだが。
同じ日が続かない?同じような毎日で同じように過ごしていて
惰性で人生潰しているようであっても実は連続した違う日々であると?
映画や動画のフィルムが連続して見えるのはフィルムに刻まれた1枚
1枚の画像が連続しているからだと、小さいころ小学何年生という雑誌の
付録のパラパラ漫画というモノで知った。ページをパラパラめくると
ぎこちなくも動きを得る絵に感動したものだ。自分で書いた絵を
動かしても見たが位置がずれるとなんかますますぎこちないし
流れるような作品は難しかった
人の毎日もそういうモノかもしれない。それは積み重ねという人も
1日1日が単独だという人もいるだろうけど、人生をパラパラめくると
独自の動きに見えるのかもしれない。その時人のカラーが出るとイイよね
2001・5・2憧れの人 マレーネ・ディートリッヒ
高校生の時観た(教育テレビのモノクロ)「モロッコ」の
ディートリッヒに憧れを感じたのは何故なんだろう
容姿ではない何か。で彼女の事を調べたのだ
英語の夏の自由課題ではモロッコの和訳を選択した
実の所合っているかどうか未だに謎だ(笑)
彼女の事を調べると言っても四苦八苦・・・
当時はもちろんインターネットなんてない。図書館と本屋の
立ち読み(笑)で彼女の意外な、そして私のハートをがっしり
捉える足跡がわかった。それは・・・ドイツ人である彼女は祖国がナチスに乗っ取られた時
ヒットラーの政策ややり方に激怒して国籍を捨てたのだ
(アメリカ国籍を得る)ドイツ人一般に対しても
罪なきユダヤ人の殺戮を止めなかったと、非難した
さらに彼女は三年間志願してアメリカ軍隊に入った
皮肉だが自分の祖国を相手に戦ったと言う事だ自分が祖国の恐怖政治に反対しても果たしてそれを
避難したりできるかというと、きっとできない
息を潜めて時が過ぎ自由な時代の来るのを待つ事しか出来ない
目の前で罪なき人々が殺されても、見て見ぬ振りを・・・
いや、やれと言われたら自分も罪なき命を手にかけるかも。
それは自分の恐怖の為、保身の為だ
きっと、私は・・・逃げの生き方しか出来ないのだ(情けない)ディートリッヒは彼女の親兄弟もドイツに残っていたらしいから
悩んだんだろう、それともそれらを振り捨てても
悪を許す事は出来なかったのだろうか・・・年老いていっても彼女はプロポーションはもちろん感性も
常に磨いていたと言う。心には贅肉をつけないという固い意思強い女性、正義感の強い人、にわたしは惹かれずにいられないのだ
シャロン・ストーン、ジョディー・フォスター、ローリン・ヒル
私の好きなタレントはなぜかガイジンばっか。
日本人のタレントはお人形さんのような気がして。
あ、これ偏見ですね、イケナイイケナイ・・
2001・4・29
この親にしてこの子あり
仕事の帰り道、幼稚園くらいの子どもとすれ違った時
プ―ンと臭い匂いがした.汗のような、何日も風呂に入らぬ
そんな匂いだった。思わず振りかえったら
着ているトレーナーも真冬のような厚手でエリやソデは真っ黒
色々ご苦労な家庭かと思いつつ歩いていたら大きな声で
「たくや!早くしなさい!」と車から母親らしき人が
降りてきた。30歳くらいだろうか・・・?
全身キンキラキンで一発でわかる高級ブランドづくしだった
心の中では爆発寸前の私。アンタのそのブラウス1枚、
バッグ一つでこの子にどれだけのものを買ってやれるのか
わかってんのか!バカヤロー!と内心怒った
誰でも親になって良いというのはやはりおかしいのだと
子どもは親を選べないと、そう思いかけたときだった
どこからか声がした「何見てんだ、タコ」え?
声の主はその小さな子どもだった。可愛げが無い・・・
汚いし心もすさんだ子ども。その言葉を浮かべそうになった時
自分の中でまた踏みとどまった
人は教育されて人になるのだ。その教育の内容によっては
人にも、サルにも、狼にもなるのだ
あの子がどういう人生になるのか、ろくでも無い人生だろうと
言うのはたやすいが、サバイバルを生き抜くたくましさが
身につき大物になるのかもしれない。
人はこう生きなければならないという規定は無いのだ
しかし、やはりあの母親は許せん・・・どうしても許せん・・・
2001・4・24
マザコンの男は許されるがマザコンの女は気持ち悪い
って、これは私の事であるから許されよ・・・
男は皆マザコンだ、または隠れマザコンでいいのだと言うのは
私の持論だが女はいけない。女は親と隔絶されなければ
いけないと思う。最近の女は母親に妙に密着している
芸能人などで良く使う言葉に「一卵性親子」などと言うのが
あるが、実に気持ち悪い言葉だと思う
母親と言うのは家族の中の影響力が一番だ、特に子どもには。
それは仕方ないとしても、女は同性である母親を倒して
独立しなくてはいけない。この考えは父親を愛し母親を憎む
エレクトラコンプレックスとはまた違って
ターゲットはあくまで同性である母親だけ。男の入る隙は無いのだ
永遠に消えない母親の呪縛、ジャネット・フィッチ「扉」の
テーマはまさにそれだった(前の読書コーナー見てね)
カッコイイ事を書いたわりに67歳の母親の家に行くと
なんとなく子どもに戻る。昔妊娠中切迫流産で出血中に
気分はブルーになって「もしも五体満足でなかったら
帰ってくるから一緒に育てて」などと泣き言を言ったり
何だかんだとグチをいったり(話が違う 爆)
まあ最近年のせいか母親もぐちっぽくなったりと
ちょっと、立場が水平線に??あはは・・・
やっぱ、私もマザコンじゃん・・・今年40歳なんだけど(恐)
2001・4・22
トイレのお話
今私はホテルの掃除の仕事をしている・・・
不特定多数の異性と性交渉を持つ女性を昔は公衆便所と呼んだ
仕事でトイレ掃除をしてみてわかったが「公衆便所」なんて
人から呼ばれたら人生お終いだ・・・
昔会社員時代私の業務担当は衛生陶器で流通量の多いのは
「T*T*」だった。シェアは当時ナンバー1
それにしてもトイレと私は何かのご縁があるらしい・・・
まあ掃除するより売ってたほうが良いけど(笑)
BBSでも書いたけど新会社は身障者は多かった。知的障害者だ
彼等は便器に素手で手を入れる事にも疑問を感じていない
命令には素直に従う。黙々と仕事をこなす・・・
底辺の仕事で見えてくるものがある。(今回今までよりさらに)
日本の「下層構造」がわかる。大ホテルでこういう仕事は
外国人を安く雇うという。日本人は金持ちだ。一方で
汚い仕事を引き受ける人がいる、それを高いお金で使う人がいる
そんな社会構造を私は間違っているとは思っていない。
公立の優秀校はなぜいけないか?
ヘンなニュースだった。公立の優秀な学校は成績優秀な子ばかりが
集まっているがそれはいけない、個性重視の教育をするために
成績以外で入学選考をするべきだ、という
公立が成績優秀者を集めてブランド化して何が悪い??
公立の中の数少ない優秀校を「守り育てて」ほしいと私は思う
公立がわけのわからん個性で生徒を増やすなら
より良い教育を求めて私立の受験、ブランド化が激化するのだ
金の無い優秀者の行く学校を潰すのか?
由緒正しい偏差値の低い公立出身の私としては
公立のランク付は大いに結構だと思っている
個性などといっても数年の観察で出るものでもない
わかるものでもない。逆にいうと才能の無いものは現代には
いらないというのだ。勉強ができなくてもいい、何か一つ
才能があれば、と世の親はいうがそこそこの勉強を身につける
ほうが才能を開花させるより簡単だとどうしてわからないのか
誰もが小説や絵、などの芸術、野球やサッカーなどのスポーツ
シェフや設計などの技術、の才能に恵まれるわけは無い
しかし大人は食べていかなければならない。仕事をしなければ
ならない。その時いやいや身につけた「ソコソコの勉強」が
役に立つ。私も才能も無いし学歴も無い、しかし
食うための学問(経理事務)で働く場所を確保できた
今はお掃除おばちゃんだけど、ソコソコの学問のおかげで
優秀な(?)友達をゲットしたり、ミーハーな本も読める
公立校の学力重視をやめようって?五十年後漢字など
ほとんど読めないし、電卓が無いと簡単な足し算もできない
日本人がうじゃうじゃ・・・なんて事に?
そして私立出身の一握りの人たちに「奪われる」のだ
学力も、生活レベルも、人権、人格さえも・・・
ママはフィリピーナ
一緒の仕事場にいるフィリピーナの奥さんと話をした
もう14年日本にいてビザは永久だそうだ
子どももいるし日本語も上手い。働き者だ
フィリピンへ年に何回くらい帰るの?と聞くと
14年間帰っていないという。お金が厳しいという事もあるし
最大の理由は「帰ると日本に戻るのが辛くなっちゃう
ここで子どもとだんな様とがんばって暮らさないといけないからね
国へ帰るときっと泣いちゃう。お母さんに甘えちゃう」
そう言った。お父さんは中国人、お母さんはフィリピーナだが
アメリカの血も入っているようだという。
「顔見るとどこの国の顔?って言われる」と笑顔で言った
異国で必死で生きる事、私たちが忘れている何かを彼女は持ってる
フィリピーナは実に家族と言うものを大切に思っている
一生懸命と言う事を思い出す・・・
私が感じるのは日本人はどうして一生懸命や努力と言うものを
ダサイと言うようになったのかという事
軽さカッコ良さにあこがれ努力なんて重い事は笑いの種
日本しか私の祖国はないと思うがそこに生きる人にたまに失望する
真面目に生きる事をどうして隠してヘラヘラした自分を
表に出すのか、自分自身に腹が立つ事もある
真面目なダサイ要領は悪いカッコワルイ自分を、決して人には
見せはしない。勇気がない。人と協調してやっていくことと
自己主張は違うのに、私の色は灰色です、そういえずに
何枚もの羽を重ねて使い分ける・・・そんな自分の「大人」の
テクニックは昔の自分が最も嫌ったものではないか?
ダサい事、カッコワルイ事が自分であって居心地がいいなら
素直になろうか?今日フィリピーナの彼女に教えられた事だ
なぜ電卓??
高学年になって電卓を購入するらしいという話を聞いた
冗談ではない。子どもは筆算でも暗算でも苦心して計算するべきだ
フランスなどでもソロバンを正規に導入したりと、計算という基礎の
強化に力を入れているのに日本で電卓?
私の仕事の力仕事。こんなに頭を使わない仕事でも足し算は使う
クリーニングに出す枚数を書くのだが60+35+14+8+9と
長くなると合計を出す。その時暗算で(ま、筆算でもいいんだけど)
126と出して書き入れる。紙と鉛筆しかない場所で電卓がないと
計算できないなら仕事は進まない
実際ハンデある人もいて足し算も困難という人はいる、が
健常者なら暗算である程度の桁を出せるように、とは常識だ
高校生の時スーパーのレジはバーコードもなくお釣りは引き算の暗算
小さい商店なら足し算も暗算、そうしてバイトしていたものだ
それが・・・何故電卓?計算は桁が多ければ確かに大変だ
私は暗算もソロバンも大嫌いだ。速度もトロイ。が電卓の洗礼を
受けない世代だから計算の重要性はわかっている
事務職時代は電卓とオフコンで計算したがソロバンはやはり便利だった
今の時代電卓なども使えないと、というが今の子どもはそんな事
教えなくても知っている。私は子どもに家では電卓は許していない
ゲームの得点の計算などで桁が多いと電卓を使っているが
気がつくと取り上げる(鬼!といわれる ばーか将来感謝するぞ)
まったくお役所の考えはわかりません