2001年のコラム 8

2001・12・31

情状酌量・・・法の裁きは時代で変わる

ストーカー妻や淫行判事など、司法関係者への裁きは重い
それは法を司る者への厳しい姿勢である
私はちょっと気の毒なくらいの制裁(ニュースになったり
社会的制裁は大きい)の姿勢を評価する。と言うのも昔の法や
発展途上の法整備がまだ不充分な国から見ると
現在の日本や先進諸国では、法が万人の納得できるものだ

ベアトリーチェ・チェンチというローマ貴族の中の
絶世の美女は父親殺害の罪で処刑された(一家揃って)
何故ならば彼女らはどうしようもない自堕落な父親から
暴力や借金,裁判沙汰、そして実の娘へのレイプ・・・と
過酷な仕打ちを受ける。誰でも逃げるか,殺すかしたくなる
そんな状況の中判決は処刑であった

400年くらい前のローマは腐敗した貴族社会だった
貴族や金など、司法は「変わるもの」「強いものに有利なもの」
だっただろう。ベアトリーチェは犯行の動機である父の乱行を
考慮されないままとなった。当時の法では貴族は自供しなければ
罪になることは無かったらしいが、チェンチ一家は拷問で強引に
自供をさせられた。当時の法王はチェンチ家の財産を
没収して法王庁のものにしたかった。だから無理やり罪にしたのだ

こんな理不尽が通った時代、腐敗した司法・・・
それを思うと今の司法は多少事件になる人はいるかもしれないが
ほとんどは激務に耐えている、ような気がする
また、どんな極悪人でも弁護人をつける権利も認められている

今の司法でもしもベアトリーチェが裁かれたなら判決は?
10年か7年,5年の実刑くらいかなあ・・・
ベアトリーチェの処刑の時市民は同情したと言う・・・

ふと思ったがベアトリーチェがブスでオバさんだったら
市民は同情しただろうか?
後世に話が残っただろうか?


貧しさから這い上がって失うもの・・・

おじいさんと話をすると戦争世代なのでお金やモノに対する感覚が
まるで違う。さらに・・・お金に苦労して育った人で年配の人は
お金持ちになってもお金に執着心がある(違う人もいるが)

ある人は貧乏で苦学して財をなし要職についた、が
地位も名声もお金も手に入れた今でもお金が第一という考え方である
娘の嫁ぎ先も1:金 2:職業(地位や家柄)とうるさく言っていた
手に入れたものは大きいが,身につかなかったものはあるだろう
「よけいなこと」つまり感性である。生きる事(衣食住)に必死であったから
生きる事に直接関係のない事はムダと判断してしまうわけだ

また別の人は自分の娘が子どもを抱えて離婚してきた時に娘の相手は
金があり,子どもを可愛がってくれるなら愛人でも良いと言い放った
私は驚いた。子どものためにもそんな考えは良くないと言ったが
「金があれば幸せになれるし,子どもだって可愛がってもらえればいいだろう」
子どもが育っていって自分の親の立場など知った時どう思うのか
私には貧乏は恥ずかしい事ではない、しかし私は金の為に男に囲われる人生など
したくないし,恥ずかしい。子どもにそんな教育はしたくもない
愛人を否定するのではない。愛した人に妻子があったなら、仕方がない
しかし始めから金のため・・・と言うのはどうしても嫌だ

その方は苦労している。少々の頃親に死なれて,生きてきた
娘を思う気持ちは同じである、が、しあわせイコール金となっている
女としての潔さとか、自分の道のようなものは「きれいごと」と言いきる
魂を売っても生きていかねばならなかったような苦界の人生が見える
「きれいごと」を持ち続けていたら生きぬけなかった人生・・・
もう少しゆとりがあったら,彼女は違ったかもしれない
絵画や景色に心を打たれ、人の心を考える、飢えなかった者が持てるゆとりを
持つ機会がなくなった。それは残念な事である

貧しい事はそれだけで悪である・・・という言葉があるが
その意味が少しわかる。私は貧乏で育ったから言い切れる
貧しい人は心も貧しくなる危険がある,と・・・
これは当事者だから言って良い事だと思ったから書いた
例えば何かの病気や事件の家族、何かの差別を受けている人などに
あなたのこういう意見は間違っていると外部が言う事は
なかなかできないが、当事者なら言いやすい
日本人はバカだ、と外人が言った場合ブーイングだろうが
日本人が言う場合問題にはならない,そんな風に。

だから言いたい。貧乏な人,貧乏に育った人
心まで貧しくする事はない。平等というモノがこの世にあるなら
それはきっと心の事だろうから!潰れないように生きたい

注:念の為言うがお金に固執する方の娘さんは全然違うタイプだ
  もちろん離婚したからと言って金持ちの愛人なんて
  考えもしない。親の考えには閉口している
  でもそれはその方が一生懸命娘さんを育てた証だ
  娘さんもその辺はわかっているが・・・

人は何も持たず生まれ出る
ケモノとして生まれる
ただひたすらに乳を飲み
母に抱かれる
いつ人が人になるのか
それは長い歴史の中でいまだに
わからない事である
私たちもまた
いつから人になったのか
今 人と言えるのか
答えは無いのかもしれない

ただひたむきに
ただ何かを愛しく思い
ただ・・・生きる
それだけで得られぬ何かが
あるのかもしれない

人は闇を模索するケモノで
手探りでわかったものを
ただの草と思うか
神の与えし恵みと思うか
それはその人の作った世界によるだろう

願わくばその目に映る世界が
美しいことを・・・・・・


2001・12・13

以前ある末期ガン患者の話しを聞いた事がある
その方は「自分は今健康です」と言ったそうだ
病気とは自分がそう思った時病気になる、と・・・
その方はあと数ヶ月の命を「健康に終わりたいです」と
言い切っていた。その後予想を越えて1年以上過ごされて
他界されたらしいが亡くなるギリギリまでしっかりしていて
趣味の句を書いていらしたらしい
家族が面会に来るとそのたびに「会えるのは最期かもしれないから」
とそのたびに「今までありがとう」と言っていたという

健康とは体の状態の事ではない。その人の総括的な状態の事だ
天晴れというこの方の最期は遠い将来(長生きの予定ですから)
見習うべきひとつの形である

死ぬ前に残すもの、を先日書いたがこういう姿勢というものも
無形の作品じゃないかと思った。志(こころざし)というか・・・

今年、そして今まで何人かの人を亡くした
近い仲の人、遠い関係の人、色々だが大なり小なり心に何かを
残していった。特に近い人が亡くなると残すものは大きい
それは時には人生を変えるほどのものモノでもあるが
生き残った者はそれに潰されず生きること・・・
大変だろうけどネ 

ダンナに仕事の悩み相談をした。実はずっと言えなかったのだ
グチを言って暗い顔をしたくないから。
でも「実は私会社で浮いちゃって」と言ったら
心配してくれた。早く言ってくれれば良かったのに、とも言った
自分も言っているから、相手にも言って欲しい、そういう相互扶助が
あっていいのだという。会社ではみんな大なり小なり辛い思いで
お金を稼いでくる。家に帰ってほっと出来るなら、それは一番だと・・・

私は甘え方が下手である。が、人に甘えたり頼ったり、は
自分にも他人にも必要な事なのだ。18年もダンナといるのだから
もっと甘えてみようかな。なのに「飲み会終わったら迎えに行こうか」と
いう言葉に「大丈夫。電車で帰れるよ」と言ってしまう私であった(笑)

世の夫婦や恋人、友達・・・みんな上手に甘えているんだろうか?


2001・12・10

昨日書いた折り紙人形の話だが重大な欠点がある
嫌われている転入生と言うのが折り紙人形を作っていて
クラスメイトの名前を書いていて、見るとにらむ・・・
までは事実だがだからと言ってそれがクラスメイトを呪っている
という事にはならないのだ。ただクラスごっごでもしたいのかも
しれないし、復讐などと考えてもいないかもしれない

こういう「予測」が噂を呼ぶのだろう
これが「クラスメイトを呪っている」として広がったら!?
これこそが災難である。だからムスコにも安易にそういう事を話すなと
言っておいた。わかっていると彼は言った。家だから話すんだよ、と。
うん・・・確かに外部に漏れなければ思う事を吐き出すのはいい事だ

ところで印象と想像というのはかなりアヤシイものだ
例えば野球帽にサングラス、マスク、金属バット・・・といういでたちの男を見たら110番したくなる。強盗か暴れたりしそう、と想像する
現実はただの野球監督で花粉症なのかもしれないのに、である
電車でミニスカの女性を見てニヤリとする男、ストーカか?
でも彼は単にポスターのアイドルに見とれているのかもしれない早とちりには気をつけよう


2001・12・9

折り紙ワラ人形・・・

子どものクラスの転入生が嫌われているようだと先日書いたが
ムスコがこんな事を言った
「転入生ね、不気味なの。折り紙で人形を作ってそれに人の名を書いて
いるんだ。見るとにらむんだ。恐いよ」呪いの人形?などとムスコは
怯えていた。ムスコは話した事がないからまだ人形に名がないので
ほっとしていたが、みんな不気味と言っているらしい

問題は呪いではない。いじめと復讐心である
いじめかどうかはっきりしないが「嫌われている」子が復讐を出したら
ますます嫌われてしまうだろう。まさに悪循環

何かの小説を思い出す。いじめられた高校生がワラ人形で同級生を
呪っていくのだが自分の性格は呪いと言う行為を続ける事で変化する
ワラ人形は効果がなかったが数年後同窓会で毒を盛るのだ
確かそういう本当の事件があってそれをモチーフにしたような話だ

いじめられて泣き寝入りがいいとは言わない、が
強くなることが復讐だとは思えない。自分のいいところを無くしてしまう
強くなる、乗り越えるというのは大変なこと。人によって違うだろう
だが・・・復讐は絶対違う・・・違うのだ・・・

ワラ人形の子ども・・・何だか心配である


2001・12・7

小人数学級は逃げられない!?

小人数学級の話を子どもとしていた。クラスの人数が多いほうがいいか
少ないほうがいいか・・・子どもとしては40人より25人くらいの方が
いいそうだ。だが少なすぎるのは絶対嫌だと言う
ある程度の人数はいた方が楽しいからと。

子どものクラスに転入生がいる。もう数ヶ月経っているが、実は
「嫌われているみたい」とムスコは言った。その子は(女の子)
太っていて女子からよく思われていないらしいどこへい
太っているせいか体育のミニバスケやサッカーの練習も
(休み時間自主的に子どもがやるそうだ)みんなで決めてもひとり
来ないし「ずるい」とブーイング・・・
この子は近郊の学校から転入したが以前の学校でもいじめられていた
・・・と数人の子が言っているらしい

どう考えてもいじめの芽。大人が介入してどうにかするべきかどうか?
見かけでいじめをするとは言語道断であるが、例えばデブ、ブスなどと
言っているわけでもない。こういう「雰囲気」のグレーさがむずかしい
ひどい言葉を言うわけでもない、が、一緒に遊んだり笑ったりが無い
それはかなりしんどい事だ・・・もちろん相手にも友達を選ぶ権利はある

嫌われる要素とは何だろう?
いじめは「いじめる側」の問題だと言われて定着した。何の理由も無く
いじめられる人も多い。が、何かの原因を持っている人もいるかもしれない

こう書くととんでもない事を言うと思うだろうが
さにあらず、今の職場で「浮いている」私自身への問いかけである
毎日仕事の帰りに考えながら家路についている
一生懸命馴染もうとしているつもりなのに、なぜ違和感があるんだろう
自分の何かがいけないのか?みんながいけないのか?などなど・・・

小人数学級の欠点が今急に心に浮かんだ
もしも少ない人数で、そこで上手くいかなかったら?逃げ場が無い
中高一貫教育でももしも「合わなかったら」6年よりも3年のほうがいい
今会社で私は(私を含んで)4人のチームだ
他の3人は昔から何十年の付き合いの、身内のような付き合いだ
今から私が割って入る事は無理かも知れない。そう思って割り切る事・・・
うーん・・・仲間が欲しいと思って転職したんだけどな

本当に人の裁定はむずかしい。人の心は十人十色だからだ・・・


2001・12・22

会社の人が久しぶりの休日を取った。責任者のような人なので
休みも返上だったりなのだ。しかし・・・なぜか会社に来たのだ
会社にいたほうが楽しいと言っていた。
せっかくの休みに会社に出るなんて?と思ったが、彼女は
家族のように親しい仲間がいるので、会社がホームなんだなと思った
一方で淋しさみたいなものも感じた
彼女はひとり暮らし。会社とアパートの往復で一日が終わる
恋愛さえも仕事に夢中でできないまま・・・時間は過ぎて・・・

仕事一筋で40歳をとうに越えて、気がついたら会社が
仕事の場であり友達の場であり、家族の場でもあった彼女・・・
会社に日本人は依存していると欧米から非難されたこともあった
でも、ちがう。会社は社員の全てをもぎ取って、もはや会社以外の
世界を(世界観を)持てなくなるのだ。残る道は依存だ・・・
皮肉である。一生懸命仕事をするほどにプライヴェートな幸せが
削られてゆく・・・


2001・12・4

親の死を願う時・・・

年を取ると人は性格が変わるという。元もとの性格に戻るのか
違う性格になるのかはわからないが、タガが外れるのは確かだ
短気になったり、気弱になったり・・・
私の母も年々性格が変わっている気がする。それは良いほうへ
行っているという事でなく、短絡的だったり感情的だったり
グチっぽい会話が増える。こういう風に自分もなるのか?
娘は母親に似ると言うから・・・

親が年を取ると老いの問題は深刻だ。できれば元気なままでいてほしいが
そうはいかない。ならば出来るだけ元気でいてくれて、だめならば
ぽっくりと亡くなって欲しい・・・無情な言葉だが、そう思う
幼い頃母子家庭で寄り添って生きてきた。母親は私にとって
命ともいうべき大事な人であった。なのに今、無情にも娘は
母親の「社会的に楽な」死を願う・・・
少しでも、寝たきりでも生きて欲しいというのでなく
そうならば死んで欲しい、そういう事・・・を・・・

親とはそうしたものなのか?親は子どもを育てたら不要なもので
子どもから捨てられる、忘れられるのか・・・答えはきっとYES
私は命を削って育ててくれた親を捨てて嫁に来た
だから・・・将来息子に同じ事をされるんだろう
それで・・・それでいいのだと、なぜかそう思う

母の言葉が響いてくる
「親の恩は返せないから親は捨てて、その分を子どもに尽くせばいい」
ごめんね、ごめんね・・・お母さん・・・
この年になった今でも辛い時、悲しい時私は心で母を呼ぶ
それでも自分のエゴで親を見捨てるのか・・・
私とは、人とは・・・何て残酷な生を授かったんだろうか

**************************************

瞳には一筋の光が映っている
それはどこまでも続いて
途切れることなく 心の深いところまで
入ってゆく光であった

光よ
私をどこへ導くのですか?
そこが楽園だと言うのですか?
私は従うべきなのですか?

私は戸惑い 動けない
途切れる事のない人の輪を願い
夢を追い・・・その代償に
老いたものは群れから残して
みんな去ってゆく

どんなに愛した人であっても
老いを群れに持ちこめない
自然の掟
自然の無情

私は遠く群れの中
振りかえるとそこにいた老いたるものは
私の未来の顔になる・・・

疾く過ぎ行く 移り変わる
若さというもの、老いという者
でも 誰もがいつか迎えるもの・・・


記憶は正しいのか?

トラウマというものがある。それが強いと多重人格の引き金になったり
性格などに影響を及ぼすと言う。また一方で故意に忘れた記憶が
長い年月の後蘇ったりする・・・記憶とはまさに人の心の中枢だ

中でも子どもの頃親がした性的虐待や犯罪の記憶を,その時は
ショックで封印していたのに成人してから何かのきっかけで蘇り
裁判になったりという事件もあるが、信憑性と言う点で意見は分かれる

その人が嘘をついていない、と言う前提で話を進めるが
例えば突然「私は親に虐待された」事を「思い出す」とする
はっきり昨日の事の様に思い出す・・・その時のカーテンの色や天気
など細かい事までも。それは確かにその人の記憶である
が、それは現実に起こったかどうか,真実かどうか、わからないのだ

記憶の刷り込みは案外簡単らしい。自己暗示や外部刺激でも起こるそうだ
身近にこんな話があった。ある子は突然父親が夜いたずらしに来ると言う
しかしどう考えてもそんな事実は無いし、実際母親が見張っていても
(一応夫婦だから心配した?笑)何も無かった・・・なのに
翌朝娘は言い張った「お父さんが私を触りに来た!」と・・・
実はその話は彼女の親友が親から受けていた虐待の話を
いつのまにか自分の身にすりかえていたらしいのだ
ちょっと不登校気味でもあり,唯一の親友の話はショックだったかも。
情緒不安定な時期に,親友の話で他人の話が自分の記憶になってしまった

自分の記憶がどこまで正しいのか?ふと思った
例えば私が小さい時(たぶん幼稚園前)父と母がケンカしていた記憶
母が泣いて私は父に「おかあちゃんをいじめないで!」といった言葉
不思議なのはその時のオレンジ色のカーテンである
何故ならそのオレンジのカーテンは私が中学くらいで母とアパートで
暮らした頃買ったものである。なのに父と母のケンカのシーンを
思い出すといつもそのカーテンが鮮やかに揺れているのである・・・
どこかで混ざった中学と幼年の記憶・・・不思議である

友人は以前事故に遭ったとき数時間記憶が無くなったという
事故前数時間の記憶が,である。うーん。人の脳は奥が深い

と言う事は日記など文字などに残すと言う事はやはり意義はあったのだ
そうだよね、古代の歴史もそういう文字の役割は大きい
おお・・・んじゃHPでこうする意味もあるって事(笑)


2001・11・27

古いものを新しく捉える(ひきつづき昔ネタ)

CMに三味線を演奏する若い茶髪のニイちゃんが出ている
何だか三味線がイイ感じ。演歌のニイちゃんもそうだが
日本の伝統(?)芸能には茶髪はイイ効果だ
黒髪生真面目風では大衆はきっと振り向かない

一方で宇多田ヒカルがデビューした時
本場のブラックのムードいっぱいの曲に「みどりの黒髪」は
インパクトがあった。あの時カラフルな髪が若者に定着して
イマドキの曲に昔の髪、はイイ感じだった

ミスマッチ、あるいは対極の組合わせはこれからのキーワード
かもしれない。うーん・・・温故知新?いや古今融合?

************************************

ヨーコは嫌われた人だけど・・・

ジョージ・ハリスンが危篤だそうだ。あと一週間くらい
だそうである。確かガン告白をしていたっけ?
と言うニュースの後にテレビでジョン・レノンをやっていた
(日テレ 知ってるつもり だと思う)
こうしてビートルズのメンバーもひとり、またひとり
欠けていく・・・

知ってるつもり、はジョンと妻ヨーコの事だった
世界で一番嫌われた日本女性と当時言われたヨーコ・・・
しかしジョンと出会った時37歳だったのかあ・・・
もっと若いと思った。なんかちょっとウレシイ(なんでやねん)
例の愛と平和のためのベッドインでは全裸で絡み合うシーンは
当時の日本では衝撃的だったと思う。でも私子どもだったけど
映像しっかり観ているんだよね・・・

そもそもヨーコは「前衛芸術家」なる仕事だったので
(ワケのわからない作品。きっとイマジネーションや
メッセージが全てで,表現は二の次なんだろう。
そういえば演劇でもアングラ劇場など日本でも流行ったらしい)
いかにも「魔女」的な雰囲気で彼女に合っている
彼女はちょっと早く生まれすぎた人でイマドキならば
成功したかもしれない。

そういえばテレビでヨーコはこんな事を言った
自分が嫌われた理由の中に「性的なアピールのない東洋人に
ジョンを取られたと言う思いがあったんじゃないか、しかし
セックスアピールはそれこそが重要だった」と自分の
性的価値を強く主張していた。うーんなるほど。


2001・11・26

タイムマシンコーナー(今作った 笑)1974年

昭和49年(1974年)の雑誌SNOOPYを
見ていたら一瞬今の雑誌かと錯覚した(私は当時13歳)
ファッションがイマドキの若者と似ているからである
幅広のボーダー(ヨコシマね)長いマフラー、つけまつげ
あつぞこブーツ、股上の浅いジーンズ・・・など
(金髪こそ少ないが髪型も似ている)流行は巡り来る
ただし少しだけその時代に合わせて変化はするらしい

その中にアンケート(大東京火災海上のらしい)があって
怖いものベスト。ふーん・・・どれどれ
1:公害(光化学スモッグやクルマの排ガスなど問題に)
2:交通事故(当時は道路事情も一因だったのでは?)
3:地震(これはもう日本はずっと抱えている)
4:物価高(今と逆。経済成長はインフレを加速させていた)

って言う感じであった。公害が1位とは、なるほど
当時は公害が社会問題で対策にてんてこ舞いの時代であった
ちょうど今ムスコが公害病について学校で習っていると言う
水俣病,イタイイタイ病、四日市喘息なぞなどを。
今はもっと人体以上に地球環境と言う事で「公害」から
「環境」にと社会の視点も変化してはいるが,当時はまだ
身近な自分たちにすぐ起こる危機にのみ社会は反応していた

次に見ていくと「和歌山県の熊の神社の近くに国民宿舎
がオープンした」というニュースもあった
国民宿舎(ユースホステルといっていた気がする)は
安く泊まれるので昔は若者に人気の宿であった
ホテルと違ってミーティングに参加しなければならないとか
規則があったが若者が交流したり,健全な出会い系サイトであった
(残念ながら私はまだ全盛期子どもだったので泊まりに行く事は
なかったが)そこで知り合った人と結婚したお姉さんもいた
国民宿舎は全国に今あるんだろうか?金持ちとなった日本人には
うるさくない高級ホテルのほうが心地良いのだろうか?

他にもデヴィッド・ボウイやリンゴ・スターのアルバム発売の
お知らせなど、ナウいヤング(本当にそう書いてある)必須の
グッズ情報がある。当時は若者文化イコールアメリカであった
新しさはいかにアメリカっぽいかということであった気がする
不良の文化、知的文化、両方備えたアメリカだった
ヒッピーや反戦さえも日本の若者には「流行」だったかもね

****************************************

トリの解体できますか?

テレビで幼い子が生きたニワトリの首を落として
肉に解体していた。それを見て子どもたちが気持ち悪い
と言っていた。私も生きたものを殺して食べた事は無い
(殺されてきれいになっているものは毎日食べている)
だが私はやれと言われたらできると思う

血肉に対する恐怖心は私は少ないほうだ
ホラー映画には興味は無いがビビる事も無い
自動車教習所の事故ビデオで女性がキャーとか言っていたが
私はぜーんぜん、怖くなかった(本当は彼女らも? 笑)
もっとも飼っていたはつかねずみが死んで学校を休んで
しまい泣いていたイタイケな時代ならできなかっただろう(笑)

食べ物を調理する事は死活問題のはずだ
どこの国に食料を「解体」することを気持ち悪いという人間が
いるだろう・・・そう先進国
若い主婦が魚をさばく事も「気持ち悪い」と言うひとこと
キャベツ(無農薬であった。自家製の畑を持つ人からいただいた)
に虫を発見して全部捨てたと言う人
先進国で食料とはクスリのタブレット並みのものなのだ

「血が気持ち悪いなら食うな!」とおばさんは思うのだ
といってもねえ・・・息子も「おれにはできないゼ」なんて
言っているのだ。うーん・・・ちなみにダンナもできないかも(笑)
ヤワな男だぜ(笑)ちょっと弁護すると、彼は海のモノはお得意デス

男性は案外血にヨワイらしい。知人夫婦は立会い出産で
ご主人は貧血になってしまったという あはは
この方体のデカイ熊みたいな外見だから、ちょっとオチャメ


2001・11・25

運命共同体?イマドキの若者の家族ゲーム

テレビでカラーギャングと言う若者のグループを見た
彼らは自分の所属するチームを「家族のようなもの」だと言う
「犯罪集団だと言われたくない」という彼らにレポーターが
「でも実際には一般の人を襲ったり強盗したりしている」と
問い掛けると「それは個人のやった事でチームには関係無い
そこまで面倒みきれない」とあっさり言った
個人がやった事は関係無い・・・・・?

彼らは自分たちのチームを家族だと言ったが違うと思った
何故なら家族とは「運命共同体」であるからだ
子どもが犯罪を犯した時当然責任は親にあるし
子どもが成人していても世間から白い目で見られる
そうして逃げられない二人三脚が「家族」なのだ

ちょっと違うが「企業」もある意味で運命共同体だろう
社員が犯罪を犯した時幹部が記者会見したり
公務員(警察や教員,医師など)ならばトップが謝罪もする

 最大の集団は国家。国のあらゆるトラブルはその時の
政府のトップが決断をし,責任を負う
日本にしても五十年以上も前に終わった戦争の謝罪問題に
国内外でもめているのは、そのせいだ。時間さえも
ここでは「現政権」が責任を負っている
中には何百年何千年も前のもめごとでいまだにケンカの
国家もあるくらいだ。その理不尽さにも「関係無い」などと
言う国はまず、ない・・・

若者のチームのトップは部下が犯罪をした時
被害者や警察へ行って謝る事はあるんだろうか?
自分の指導力不足だと。こういう屈辱的でツライ行為は
常に社会人は負っている(山一證券の社長の涙となぜか思い出す
自分に関係の無い事であっても全責任を負うのがトップであり
家族なら親なのだ)私には関係無い、などということは出来ない

ところが若者の共同体は違う。個人に対する責任を負っていない
それを「家族」というのはやはりヘンである
都合のいい部分だけを取って家族をやる
都合のいい所だけ個人主義を通す
それでは社会には説得力が無いのは当然である

クリエイティブな仕事を望むと言う事は・・・

高校卒の経歴が無くてもそのまま大学へ行けるようにと
高層がされているらしい。個性重視の開かれた大学!?
学歴をブランドにしてあがめ奉るのも愚かだが
学歴をないがしろにする事もまた同じ事だ
大学は学校教育の頂点にあっていい
最高学府に学んだ人が社会を引っ張って悪いはずはない
(もちろんそうでない人も実力で、おおいにけっこう)

最近の「どうせリストラなどで将来が見えないから
イイ大学イイ企業なんて無駄」という風潮も好きじゃない
大学は職業斡旋所ではないはずだ。大学にあこがれている私は
損得抜きの学問の砦であってほしいのだ

数日前NHKの「しゃべり場」で机に向かって座っている仕事
よりも想像的な仕事をしたい、という意見があった
(だから大学行くよりも技術を学んだ方がイイと言う事?)
クリエイティブな仕事!?その最上級なものは芸術で
技術なら美容師(最近流行り?)やコック、板前さんなど
企業なら商品企画など,無から一から作り出す仕事なんだろう

ではただひたすらに歯車の一部になって働く創造性ゼロの
仕事に価値は無いのか?山のような書類をキカイに入力するだけ
バラバラの部品を組み立てるだけ、便所を磨くだけ・・・
そんな仕事に?価値は?

私は以前シツコク書いたように便所掃除やお布団上げをやってきた
その仕事がすばらしいとか,そういう人のおかげでホテルに
気持ちよく泊まれるのですね、と言う人もいたが
どう考えてもそれはクリエイティブとは言えまい
だから価値は低い、と言う事実を当事者も世間も認めるべきだ
どうしても私は便所掃除でプライドは持てなかった

その上で「しかしそういう底辺の仕事が無ければ社会は
成り立たない」というならば、それがぴったりの表現だ
インターネットでショッピング・・・便利で無駄の無い(時間も
含めて)世の中だがその商品が自宅に届くには
倉庫の人や配送トラックなど,現場の人は動いている

芸術性も低くプライドを持ちにくい仕事は,実は社会に不可欠で
逆に芸術では腹はいっぱいになりはしない
(つまり農家や産業が無くみんなで音楽や詩を作って暮らしたら
すぐ社会は飢えて滅びてしまう

何人が「クリエイティブ」な仕事をしているのだろうか?
また、仕事に何を望むのか?
ただし・・・若い人はどんな事を希望する権利もあり
未来があることは忘れないでほしい。未来が無い?
少なくてもその言葉は1億年あとくらいに言おう
もうすぐ40歳になるわたしで、仕事に関しては

狭まるばかりだ。クリエイティブどころではない
だけど言ってもイイかな?「明日があるさ」と


2001・11・23

日本の牛肉文化って?

国内2頭目の狂牛病の牛が確認された。それは良い事だ
チェック機能が有効に働いている証拠だ
他の何万頭の牛は安心して食べれば良い

日本人は食文化に牛が入ってきたのはそれほど古くはない
以前は「四足の動物」は食べていけないと,牛や豚を食べない時代
(江戸時代まで?)を経てやがて文明開化でそれらを口にするが
庶民が口にするには高価で,その後戦争などもあって
貧しくて「肉」が高級品だった

経済の成長と共に「肉」が生活に深く入ってくる
私の子どもの頃はすでにおかずに一品くらいは「肉」はあった
が、牛肉はたまーに・・・であった
なぜなら当時の牛肉は高くて、まずかったのである
当時は匂いも臭かったし豚やトリのほうが数倍好きだった

今はおいしく安くてよろしいのだが、小さい頃の食生活は
牛肉と縁遠かったので,私は牛肉になじんでいない
だから無理して牛肉を食べなくても良いのである
かえってイモの煮物やアジの開きなんかだと落ち着く
ハンバーガーなどもたまにならいいがひんぱんだと
胃がもたれてしまう。体が和食に向いているのである

しかし牛肉を最近無理して買っている。それは何となく
牛関係の業者が可愛そうだからである。性格的に買ってしまう
みんな、牛を買ってやってください。そうすれば私無理して
こんなに食べなくても・・・


2001・11・21

カニ事件

えー・・・せこい話ですが・・・
夕べ夕食におじいさん(舅)がカニを買ってきまして
おかずに出したらあれ?三人分?
おじいさん、ダンナ、ムスコ・・・私の分は?
おじいさんあっさり「三人分パックだからりんちゃんの分
無いけどさ(わたしはちゃんずけで呼ばれている)」

うーん・・・いいんだけど。
ちょっと淋しかったりして。何十年たってもヨメは
子どもにはなれないんだなあ・・・
これ自分の親なら言えるんだよね「ちょっとー,始めから
仲間はずれなの?ひどーい」とか気楽に・・・

ヨメとかムコって思えば私生活全て他人の中に入るのね
その中で始めはだんなとケンカしたりすると孤独感強くなって
自分の親の声聞きたくなる。子どもいない時は味方はダンナだけ
(正確には子どももダンナの血族なんだよね
つまり何年たってもヨメは他人の血なんです)
時間が経って少しづつ自分の居場所を家庭に確保する
それが「なじむ」と言う作業なんだけど、たまーにへこんじゃう
慣れたはずなのに。ちなみに近所と言うのも一からの
人間関係になる。我輩はヨメである名前はまだ無い・・・
近所の年上のおばさんで私の苗字で無い下の名を知っている人は
何人いるだろう??いまだにね・・・

ちなみに子どもを産むまでずっと働いていた
職場は「全て他人」だから居心地が良い場所だった
うん。ヨメは働いたほうがいい。もしも家族とうまくいかない
のなら。私の舅は悪い人ではない。だが同じ屋根の下では
気は使う事もある。ならばうまくいっていない人たちは・・・
ヨメは外に出てみよう。お金も稼げるし!?

それにしても血がつながっている、とか育った家族とか
すごい。色々な面を気にしない,受け入れあうという
土台なんだろうな・・・そこで育ったということは
オムツを替えてもらって恥ずかしい事カッコ悪い事
全て家族が共有していると言う重み,安堵感

ああ・・・ヨメって淋しいなあ しくしく(;_;)


2001・11・20

本当でなく嘘のほうが救われる事

キツネに取りつかれた,悪魔に見入られた
私はどうしたらいいんでしょうかと医師の門をたたく
医師は答える「あなたはキツネに取りつかれてはいない
あなたは脳のある部分でトラブルが起きているのだ」
医師は言う、投薬で症状は軽減する、と・・・

しかし患者は怒って帰っていった
患者は何件も医師を尋ねた
そして最後に訪れた医師は患者にこういった
「キツネに憑かれていてはさぞや体が大変でしょう
私は医師なのでキツネを追い払う方法はわかりませんが
あなたの体に負担が少ないようにクスリを出しますから
飲んで下さい。キツネのほうは私も調べておきます」

患者は初めて「正しい」診断を下した医師に素直に
従った。医師はキツネにはド素人らしいが誠実のようだった

患者は思った
「彼は名医ではなさそうだけどいい人だわ
クスリのおかげで調子はいいし、キツネも最近離れ気味だし」

********************************************

患者はキツネ憑きを治したかったのではない
たぶん自分の言葉に賛同してほしかったのだ
人は自分を認めてほしい,日々そう思って生きている
自分の言葉に重みがあるか?自分の言葉を信頼してくれるか?
あなたは、くだらない事を思いつき人に言って後悔した事は
無いだろうか?あるいは自分にとって真剣でも人には
何でもなかった事・・・

もうひとつ、この患者は自分が病気であると言う事を
認めたくは無かったと思う
自分は非は無い、理不尽なキツネのせいで悪いことが起きているのだ
汚い言葉も、下品な態度も,全てキツネだ,私のせいじゃない
・・・それを冷たく「あなたの脳がいけないのです」と言われたら
自分の存在を否定する事になる

テレビで霊に憑かれたとか,見えたと言った場合
いくら科学で説明しても納得も安心も出来ないと思う
その人はきっと霊というものを信じ,自分の信じる世界を
前提として窮地を救ってほしいのである
科学でメタリックなキカイで計測するよりも、霊能者にお払いを
してもらうほうが救われる。それで安心するならばそれでいい
それは科学的におかしいのだと隅からじっくり説明して
では自分がおかしいのか,と否定され悔しく悲しく思うなら
霊がいる、それでかまわないのである

********************************

逆もいえるけど。
私は科学的説明がほしいタイプだ「不思議なこともあるのよ」
「魂て本当に体からでるのよ」とかではなく
その事を証明する説明がほしい
だから信じたい権利もあろうし信じない権利もまた,ある

文章ファイルへ

ホームへ