1981年 20歳

みんな悲しい 自分さえも悲しくゆがんでる
「助けて」そう云ってみる
でも本当は 誰にも触れて欲しくない

大人はどうして生きてゆけるんだろう
こんな多くの悲しみの中で

ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・
誰にそう云っていいかわからない
それほど多くの人たちを
私は苦しめている

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私が生きている間に犯した罪は
きっと 私の人生自身よりも重いだろう
悲しみや淋しさは きっと
そんな罪をごまかす為のものだと 時々思う
自分の甘さで誰かが傷つく
それが私の心を重くする
そして・・・その重さで・・・そのせいで・・・
私の心はいつまでたっても 素直になれないのだ

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(友達へのメッセージ)2000年

あなたの迷いも、悩みも、それゆえにあなたです
私はこの詩を書いた時から19年経った今思います
私の迷いや悩みは間違ってはいなかったと・・・
自分の道に体当たりでぶつかっていた
そんなピュアな自分が 今の自分を作ってくれた気がします
恐れないで!あなたが色々な壁にぶつかり、迷い、悩む事
それこそが かけがえの無い出来事となり自分の
魂(自分自身の核という意味で)に刻まれるのだから・・・


苦しいからもう少し生きてみよう」
これは今話題の鈴木健二アナウンサーの本の題。
これを読んで自分が死ぬ時何を残せるかという事を
考え始めた
「普通に生きて普通に死ぬ。子どもを二,三人残して。
それはただ単に血を絶やさなかっただけの話。」
と書いてあったことがかなりのショックであった。

私がこれから残せるものはなんだろう?
まだわからないけれど,せめてこの心を残したい。
だから正直に、ありのままに色々な事を
記したいし,友と話したい


三十歳になったら死んでしまおう。
今,ふとそんな風に思った。
わからないけど「何だってこんなに不安定なのさ」です
勝気な自分と脆い自分
二十三歳。きっと世間では
「一番いい時ね」なんて言うんだろう

何がいい時?会社,飲み会、英語スクール,バスケ
忙しいだけ。わざと忙しくしているのかもね。
それらを取ったら何も残らない,きっと。

(注 えー,来年四十になります。2000年現在。
しっかり生き残ってます。(^○^)今は死にたいどころか
絶対死にたくねえ!という心境です。
友人いわく「若いって事は死にたいって事よ」迷言だあ。)


このごろ処女性についてよく考える。
バージニティーを自分の視点,他人(世間?)から。
自分がまさに今処女であるということ
今までは深く考えなかった

守りたいとか,捨てたいとか
そんな事ではなくて,あるがままに,流れのままに
行動(恋愛)するのに処女性というものが邪魔なだけ。
モグラと人間にしかないというものに固執する男と女。
プラトニック・ラブというのもきっと精神的には
もうバージニティーは消えたという事じゃないか?

「すき」という気持ちはあっても
それが即SEXには結びつかない。
Rにいわせると「青臭い」っていう事になるのだが
彼女はどうなんだろう?
子どもから大人への移行。・・・疑問・・・
欲望を超えた恋愛はないと,断言した彼女。

小室みつ子のアルバムにあった文
彼を慕う彼女,影。しかし彼は言う
「わかるだろう?かげじゃだめなんだよ。
僕は心と体が欲しいんだ。心はもちろん語り合う為に。
身体は抱きしめる為に。
影だけの君じゃ抱きしめられないじゃないか」

処女でなくなったら色々な事が変わるのだろうか?
ファースト・キス,何も変わらなかった自分
さなぎが抜けるように変わるなんて全然なかった
一連の恋愛に付属する行為はそんなものかもしれない。

けれどなぜか,のこだわり。
なんとなくまだいや。不可侵の部分を守りたい。感覚。

という戯言にまたRは笑うんだろう・・・

(注 この話しやっぱアップしにくかったです。
   今の若い人には化石のような事かもね。
   でも,オバサンにはかなり恥ずかしいのだよ。
   まあいっか。時効だよね。もうすぐ四十だもん)


言葉が欲しい
その言葉がわたしをを傷つける事でも
何もない不安におびえるより・・・いい。
どんなに乱暴な言葉の波が来ても
何もない真っ白な壁のように
沈黙の時を過ごすよりも・・・いい

わたしは,言葉で自分と他人をつないでいる。
そして、いつも言葉に飢えている。

時には自ら乱暴に,言葉を投げつけてみる。
そんな時は逆に他人のあたたかい言葉を待っている

不安は今ないけど
こうして部屋にひとりでいると
(今は真夜中だし)
淋しい思いでわたしは動けない。
「人恋しい時間」というのが
本当は一番わたしらしい時かも。


今二十歳,どこか昔と変わったろうか・・・
よくわからないけれど。
こうして,時間というのは驚くほどのスピードで
過ぎてゆくのだとわかっただけでも
わたしは大人になったのだろうか?

わたしの心は疑問でいっぱい。
(昔からそうだったように)
いろんなクエスチョン・マークで
わたしは生きている。
(それがわたしのエナジー)

ただ,今は昔より少し違ったものも増えた。
それは恋であったりもするし、
仕事であったりする。
でも、
わたしは今でも「わたし」


1982年 21歳

潮騒が私をなぐさめ そして 悲しませる
私はいつも 海で泣いてきた
誰にも 言えない 言ってもわかってもらえないと
そんな失望が心いっぱいに 広がる時
私の足は海に向かうのだ

寄せてくる波
足元で砕け 白い雪のように広がり散ってゆく
波のはかなさに 海の悲しみを見て
消えない悲しみは 誰にでもあるのだと
そんな言葉を潮騒から聴く

生まれてきて しあわせだったか
生きていることが つらくはないか
いつでも かえっておいで 私の元へ・・・
そんな母なる海の声が聞こえるようだ

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自分の情けなさにあきれる時
自分が何をやっているのかと見捨てたくなる時
自分の孤独を痛いくらい感じる時
人にすがりたくなる

手を伸ばし、誰かを求め、心は黄泉をさまよう
でも、いつも、そこには誰もいないのだ

おぼろげに見える人影に向かって 走る

その果てに見えたのは 自分自身の影だったと
がっかりした少女は その水鏡の自分に吸い込まれる そんな話

砂漠にさまよい 水を求める旅人が
やっと見つけたオアシスは 幻だったという話

いろいろな期待の果てには 裏切りがある

今日失望したから明日はきっといいことがある

いいや 本当は 物語はしぼんで終わるものだ
失望の次には絶望が そして終わりが待っている

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大人になりたい
私に欠けているものがある
いつまでも 大人になれない自分
そんな自分を捨てたい

大人っていつなるのだろう?
どうやってなるのだろう?
こうやって 見かけだけは
大人として仮面をかぶっているけれど
本当はあの頃の さびしさに震える小さな子のまま

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新宿で会った女の子はまだ17歳だった
学校へは行っていないようだ
カンサイのド派手なハッピ(?)のようなスタイル
サラリーマンの多いこんな店に?
・・・大人が好きなのといっていた
お母さんもお父さんもずっと顔も見ていないと

さびしいのかな?
踊っていないときはひっきりなしに話し掛けてくる
ナンパしに来ているんじゃないよ、なんていう
私たちはずっと踊っては、おしゃべりし
それを繰り返した

ヒールのカカトが減ってしまって
帰りまで持つかどうか 途中心配になった
でも もうどうでもいいと思った
裸足でもこのまま踊っていたい
音の洪水は心地良かった

帰っちゃうの?何度も聞いていた
うん。ごめんね。終電が無くなっちゃう・・・
いつもここにいるよ、彼女は言った
「バイバイお姉さん」

ひとときの妹
夜の町が見せた幻か
さびしい私への 神さまからのなぐさめか・・・

8月ももう終わる・・・

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えー、真面目な私も、ですね
当時流行っていたディスコというものは
いたく気に入っておりまして(笑)
たまに新宿の某店AやBに行きました
ひたすら音に浸るというのがイイんです

ひとこと。ジュリアナなどが流行るもっと前です
ディスコの選曲ももっとメロディアスでした
ブラックとかね

今よりももっと新宿って行きやすかったような?
今って(近寄らないけど)行ったらさらわれるか
殺されそう(笑)食われそう・・・あはは

21歳というのは仕事でも微妙に迷う年でした
このままこの会社にいるのか
自分には他の仕事があるのではないか
それともお金だけを集中してためて
ドーンと日本から飛んでいってやろうか
学校(大学)で勉強しようか
信じられるもの、導いてくれるもの、を探そうか
(まあ宗教や思想、ですね。けっきょくその道は
私には合わなかったです)
人恋しい、恋愛を求めたい(デッカイ片思い失恋の後で)

とまあ色々あった年でした
母がいるから土地から離れなかったけれど
これが私の運命だったんでしょう
まあ、もう少し子どもが大きくなったら
また悩みます。人生の後半の選択をね(笑)

そう思うと悩みって「若さ」ですね
いいもんだ(年寄りくさいですね 笑)

今日は久しぶりにSFを読んでみた。
栗本薫ノ「レダ」だ,今SFマガジンに連載中のお気に入り。
それを読んで考えた。

人間は破壊の歴史をたどって,文明を発展させてきた。
そうして今だってきな臭い匂いがしている。
この社会で人間は一体どこへゆくのだろうか?
あるいは破局へ,あるいはユートピアへ
(ユートピア・・・それも一つの終末だ)
それでも人間は流れてゆく。違うだろうか?

自分が生きているのだと信じているこの時
「生きている」という事実のほかには
一体何があるというのか
なぜ「生きている」とか
「苦しみはどうして感じる」とか
そういった事について考えるのはなぜか。
全てが疑問符の大洪水。

より完成してゆく文明とは反比例するかのように
体力の低下や,精神力の脆弱化はなぜなのか。
今だって世界は戦争の匂いでいっぱいだ。
なぜ人は争いを好むのか
きっとそれは人は肉食獣だから。

肉・・・血の通ったものを殺して食わねば
生きてゆけない本能。
それが破滅へとかきたてる。
私はそう思う。

(注:栗本薫:レダですが実は内容を記憶していません。
たいていのSFは忘れないんですが、おかしいな・・・)


ブロンディーのベストアルバムを買った。
何故デボラ・ハリー(いまはもうデビー・ハリー)にひかれるのか
自分にないものを求めているのか
ダイアナロスも好き。

女たちはどうしてこんなに美しいのか
それは長い年月を,耐えて花咲くように
今,この時代をかけてゆく強さなんだ。
何故神が女に苦難を与えるのか
出産のような体の苦しみ
卑しい生き物とされる社会の苦しみ
女は実は神の直系で,それを妬んだ男たちが
女を迫害し始めたんだろう。
泥人形は本当は男なんだと思う。

何故男にひかれるか,魂が奪われるような思いなのか
それは太古の,男たちの呪いに違いない。
女の,神の子の資質を奪おうと・・・

あの人が好きと,私は感じる時には
私の神性は消える。それは神性が男に奪われる事。
悔しくて,甘美。
許さない。
でも心が少しずつ男に向かってゆく
神の子どもから,ただの泥人形へ私が変わる。

クォーターフラッシュのテープが音が悪い。
LPを買おう。
こうして強く心に響く女たちの声で
ぐっすり眠れるだろう。


自分かどんな人間か、なんて
本当はあまり大切じゃないんだ。
自分がどうありたいか,どんな風に生きてゆくのか
そっちのほうがずっと大切。

眠れない夜 泣いた夜 頭に浮かぶ言葉(何でよんだっけ?)

長き夜を 泣き明かしたるもの出なければ
今だ人生を共に語るには足らず・・・・・(カーライル?!)

本をいっぱい、のぶくんに送った。
子どもの頭には何でも入る。今はちょっと難しいものも
そのうちわかるかもしれない,期待を込めて。

本は私の友達だったし,先生だったけど
私は少し変わらなければならない。
だから・・・心の整理として本をあげた。
大人になるために捨てなければならないもの
やっぱりあるのだ。
本・・・さよなら。とっても哀しかった
でももう少し大人になるのだ・・・


またこの問題が頭を悩ませる
都会へ行ってカルチャー・ショックを受けても
もうこの有様。ぬるま湯の中で私のやりたい事が見えない。
情けないやら腹が立つやら。結局二つに一つしかない
辞めるか続けるか,の二つの道。上手い話だが
自分にとって良い選択だという保証があれば転職に賭けて見せるのに。


なんだかものすごい敗北感があって,しかも完全に
つぶれない程度にダメージを受けて,そこはすごく痛いのだ
単純に言えば女であることで,周りの女に対する敗北感
社会人であることで,成功しているキャリア女性への敗北感
人間である事で,自分の信念に対する敗北感

(自分の心にさえも正直でない)

そんな様々な敗北感が私のコンプレックスになる
自分はダメな人間だなんて思えてくる。
人並みでないような思いになっていく

でも助けは要らない,かといって自分など救えない
ではどうしようか?宗教が私を救えるだろうか?
何かを信じる事で,その行為が私を救えるだろうか

色々なクエスチョン・マークに色々なアンサー
私は迷っている。今どこを歩いているのか
足元は見えるけれど,そこから前へ伸びる道は見えない。
指針が欲しいといつも思い,ある時は日記に記して
ある時は悔し涙に乗せた。私の道はいつでも霧の中で
まどろんでいる。果てしなくのびる事,人が行き来する事

それら全てを否定する道,それが私の道だ

もしかしたらカーブが多いからそう見えるんだろうか?
カーブとは何なんだろうか・・・・


そんな思いをしてまでサラリーマンでいたいのかい
そんな気持ちはある。違う業界,世界に入ってみたい。
だけどなんとかこの安定を保ってはいたいのだ。

新しい世界でいくつもの壁がきっとある。
機械的に書類を作ってゆく今のほうが楽なのかもしれない。

営業に向いているといわれる
個性の強さはうけることにつながる。でも愚にもつかない人に
媚を売るのはプライドが許さない

人が好きだから笑っている。仕事にしたら笑う事が苦痛になる。
それはもう私ではないと思うのだ。


1日が三十時間あったらいい
泣き言かもしれないね,こんな事考えるのは。
でも一日会社にカンヅメ。残り少ない二・三時間では
やりたい事の一つさえろくにできない
寿命が八十歳だとして六十歳まで縮めたっていい
今,この若い時にいろんな事に恐れずにトライできる時間を
有効に使いたいよ

仕事が生きがいならばいいのにね
好きなことを仕事にする人、ホントうらやましい
でも私はダメなんだ。だってひとつもモノにならないんだ
格ホントに根性なし。波の激しい性格なんだよね。

なんだかこうイライラしたり調子良かったり
そういう所。わかるんだなあ,自分で。
体の調子がわかるみたいに。
それで気違いにならないんだから
それなりにドンカンなんだねきっと。


これからどうやって生きていこうかなんて考える
当面仕事もあるし,特別困ってるというわけじゃない
ゼイタクだという人もいる
でもこんな気持ちをわかってくれとはいわないよ
そんなのって甘えだよね,勝手だよね
誰だって他人の気持ちはわからないんだ
限界ってあると思う,何にでも。でも実際に限界に来てみると
その孤独ってホント悲しいんだよね


まだ未来が見えなかった頃
自分を信じて歩いていた
「いつかきっと」そんな言葉の中には
無数の夢や希望がいっぱいつまって
その箱はずっしり重かった

でも,おもちゃ箱の夢は
少しづつ消えてゆき,軽くなって
今,箱の中には遠い日の影だけが
ぽつんと残っているだけ・・・


悲しみがどこからくるのか誰か教えてくれませんか

涙がどんなにないても尽きないように

悲しみもまたどんどん押し寄せてくるのです

悲しみをせき止める方法はわかりません

ただ一つ願う事は他人の不幸を喜ぶ人間にだけは

なりたくないという事です


今,聖書を読んでいる
人を許せる自分になりたい、誰をも愛したい
けれど,誰をも愛したら愛する意味がなくなってしまう
そんな気がする。憎んで憎んで,その人を心から憎んで
心をさいなまれ,そのあとで本当に愛せるようになる。

敵を愛し,許したら自分にも甘えが出てくるだろう
だったら人を憎んで,愛しする事,許す事の大切さを
覚えた方がどんなにかいいだろう・・・

人の心,自分の心,どちらもつかむ事はできない
だから不安でたまらないのだ,人は。

絶えず何かをこうして考えている事,それが私を支えている
考えることが生きる事,そんな風にさえ思えて来た
ちっぽけな悩みや葛藤であっても真剣に取り組みたい
他人に対してもそうありたいのだ。

人は皆歩くのだろう。イエスの歩いた道と同じ所を。

人は皆十字架を背負っていると,誰かがいったように。
人は幸せも,(不幸)もその手に持っていくのだ
(どんなにそれが重いとしてもひとりで持っていく)
他人を当てにしても歩くのは自分の足でなければならない

神が決めたわけでなく,そうありたいと自分が決めた
悩む事も,愛する事も,私の手足でしか動かない・・・


私は明日辞表を出す
何をしてきたのだろうか、なにかできたんだろうか
これからどうなるのだろうか
何もわかってはいないけれど,今私は歩こうとしている

仲間と上手くやっている,次長のお小言も少なくなった
そんな良い状況の中辞めるのは悔しくもあるけれど
そういうよい形だから辞めても良いのだと思う。

そして新しい気持ちでまたスタートしてステップ・アップ!
自分の事,仕事の事,恋愛の事(またトライだ?)いろんな事
違った目で見られるかもしれない。そう願っている


自分で決めた事,他人が決めた事,色々な取り決めで
世界は成り立っている事をやっとこのごろ考え始めた

自分の意思で歩く事のむずかしさを感じ,また一方では
他人の意思に従う事の反発を覚えている

生きていくという事は矛盾の輪をひとつひとつくぐりぬけ
クリアしていく事か、それとも・・・破壊する事か・・・


これから波が起こる
明日,辞表を出すに当たって,心の波がおこるのは
仕方ないけど,周りの人におこる波は私のせいなんだから
すまない気持ちでいっぱいだ

ありがとう・・・と,その言葉だけでいい
それだけ残して立ち去りたい

いつもみんなのことを思い出していたい
社会人としての私を育ててくれたのはこの会社です
しかし自分のステップに向かって「卒業」します

なぜなら歩き出さなければ未来は永遠に変わらないから


消息を絶った大韓航空機はサハリンで
領空侵犯でソ連軍に撃墜されたという報道を知った
日本人は27人乗っていてその他様々な国の人が
空のチリになってしまった。世界中が怒っている

なぜ非武装の民間機を撃墜したのか・・・疑問
何の罪もない多くの人,その家族が一瞬にして
運命を狂わせた。人の手によってなされた殺戮

本当の事はきっと時代の流れをまたないと
知ることはないだろう。それまでは事件を忘れない。
許す事はできない。許してはいけない。

人は理屈を越えてゆずれないことはあるのだ


時は風・・・
目には見えなくとも
頬に肌に吹きすさんでゆく
「そんな時代があったのか」と思い出してみても
それはもう,記憶のそこにしか存在しないのだ
時は光と影
時は思い出
辛くもあり楽しくもある波に
人の生を乗せて
帆はふくらみ過ぎ去っていく


ワタシには十年のブランクがある
十年遅く生まれた事で今の時代にとけこめないという事だ
昔日本におこった急激な波 反戦 平和 思想の嵐
今この時代、無気力な時代に自分の居場所を見つけられない
昔よりもっと激しく動いているはずの現在の
世界河の流れは見えない


孤独を感じる時とは
人恋しい気分の場合と
他人なんて全く要らない気分の場合と、ふたつある
今の気分・・・他人は要らない気分

自分をわかってくれる人は
永遠に自分しかいないという当たり前の事を
いまさらのように感じてしまう

いやだ
何が?
無気力の人間が

他人を理解する能力が欠けているのかもしれない
わたしたちは、みんな・・・


柴田翔「されどわれらが日々」を昨日読み終えた
現国I先生が愛読だったこの本
彼には反抗ばかりした。口癖の純文学論にはなお反抗したくなった
でも今はなつかしく思い出す。

反抗 あのパワー,あのひたむきさが
少しでも戻ってくれたらいいのに。
自分を古風な人間だと思う。一生懸命やる事こそ現代では
一番バカらしい事だから。流行にはついて行けないと思う

いちご白書、二十の原点・・・私の憧れの時よ・・・

ピエロになるのはイヤだ、けれど
シラケてるのはもっとイヤだ,シラケている人間はキライだ
自分を冷ややかに見つめる目を
誰だって見たくない。好きじゃない。
私はピエロじゃない。一生懸命やってどこが悪いというのだろう

今この死語にもなりかかる「シラケ世代」という言葉にさえ
憎しみを感じる。そしてそんな言葉が消えゆくほど
世の中がシラケているのだ

人を思いやって行動するとピエロになるなら、もうやめよう
そして自分の愛せる・信じられるごく一部の人達にのみ
あえてピエロになってあげよう。
もう決して不用意に他人に心を開かない。

必死でやった事全て,流れてしまうから
やっても見かえりが無いんだから
もう何も他人には期待などしたくない
私だってシラケることくらいはできる

そうしなかったのは
風や海や様々な季節の足音,目に見えぬもの,美しいもの
そんなものたちを見失うのがイヤだったから・・・・・・


おばあちゃんが死んだ
おかあさんが「満ち潮で子どもが生まれ引き潮で人が死ぬ」
ぽつりと言って時計を見た

おじさんが言った事も驚いた
「人の死を見る事は最大の人生勉強だ。どんな人間でも
息を引き取る事はその人にとっていいものだ。
きれいなものだ」と。正直なぜそんな事を?と思ったが
長いおばあちゃんの介護に携わった家族ならではの
言葉だったのかもしれない。本人も家族も辛い介護の時間
精神的につかれてお互いに憎んだりしなかったろうか?
でもそれを全て清算してゆく「死」は確かにきれいなのだ・・・

私にはまだ死の意味が、不安や恐怖,無などの悪い意味しか
持たないからおじさんの言う「きれい」を理解はできない

でも老いている人の死とはたぶんそう言うものなのだ
淋しさや辛さはもうとうに去って「終わった」事だけの感覚


忘れると言う事と,忘れないと言う事は
同じだけむずかしい。

人の歩く道の長さと,それに追いつけぬ時の早さのように。

苦しいと感じる人と,未来を信じる人との違いもまた同じ重さ
人の世のなんと不思議な事か・・・・


ところで少し前にHPプライベート・シャドーの絢架さんが
目の調子を悪くされた時あねき分というかたが、代行して
アップしたりレスしたりしておられた。それを見て正直うらやましいと
思った、で、思い出したのが私が過去ひとりだけ「姉さん」と
呼んだ人のこと。慣れぬ会社で先輩だった彼女を慕って私は
兄弟の感覚(のような。実際は一人っ子だからわからない)を覚えた
彼女が電撃結婚し、結婚の話を知らなかった私はすねた・・・
(私には言いにくかったと後から聴いた。ちょっとお子ちゃま過ぎ)
というなつかしい話を思いつつたったひとりの「姉さん」からの
手紙を載せてみる・・・五歳年上のねえさん・・・

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星を見に行って来ました
星を見る事は女性的な事だとある人が
いいましたが、それは星の現実を見ないで光が綺麗だとか
表面的に見る事をいうと思うのね。天体望遠鏡などを使って見る事が
苦痛というのは、自分との対比が恐いのかもしれません

私は望遠鏡が好きです。もっと大きなもっと知らないところを
自分の目で確認したい、宇宙へと広げて見たい。見るという行為は
「見方を広げて行く行為だと」思います。あなたはわかってくれると思う
仲間が出来てうれしいですよ。

言葉で伝えられないものを、見るという事で伝えられる事もある
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中学かな。理科で初めて宇宙の概念を教わりました。
宇宙とは無限であり、光速で遠ざかっているのだと。
不安・・・と同時に果てしないという感覚も生まれました
原子の中に原子核と電子がある 原子核の中にも陽子と中性子があるなら
この自分にはどれだけの構成の物資があるんだろう?
もしかしたら自分の体の細胞の一つ一つに宇宙が存在するのではないか
そんな考えを持ちました。でもね、宇宙とは自分の考えがなければ
無のものでしょう。だから哲学という物も生まれたんでしょうね

私は星が好きです。でも目に見えぬ世界もまた輝く星なんですね

(1982年 私は20歳の時の先輩 25歳)

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この先輩は星の好きな人だった。同じものを見ている、そんな思いで
私はうれしかった。青春という死語を使うとするのなら「青春」だった。
青春て恋愛だけではないと思う。友達にも今と違う何かがある。
利害を超えた「友情」・・・これも「死語」なのか?
どちらにしても、なつかしい。みなさんと違って私はもうオバサンだ
そういう感覚の友情はもう無理だろうか・・・


秘密の花園

誰にも入られたくはない なのに 誰かに見せたい
そこに花は咲いていない あるのは棘に覆われた世界だけ
そこに棘に切られた痛みと 棘を染める血の赤
そんな闇の世界であっても 誰かに見せたい
私の秘密の花園


電車の窓から、自分とそっくりな影を見た
あっという間に通りすぎたけど
自分が持っている古傷を
もっとたくさん体につけた同胞が
世の中には、たくさんいるのだと、ふと思う
一駅ごとに、違う人、違う顔・・・

世の中には、無数の人生、無数の顔
それと同じ数の悲しみ
そして・・・同じ数の笑顔・・・

       (1983・9・6 22歳)


色々な事に苛まれ、心はその形を変えながら
流れる者へと傾いてゆく
悲しくてもアオ 苦しくてもアオ
その代わり幸せでもアオ
何もかもぼやけている
こんなどうしようもなさにピリオド
ひしゃげて崩れていく私
心のありさまを見たくない
長い時間を重ね、私の心は少し老いた
 1983・5・10(22歳)