読書かんそうぶん 科学
記憶は嘘をつく ジョン・コートル 講談社
以前紹介した「記憶を消す子供たち」は
悲惨な体験(殺人事件の目撃)のショックから
自分の記憶を封印して忘れていたが
ある時その記憶が蘇る
という事件を元にしたレポートであったが
今回は対極をなすような論説である
つまり記憶は、事実ではない
記憶は後からの刺激で書き換えられている事もある
というわけである
人の記憶はキカイのメモリに比喩されるが
意外に生身の記憶は「いいかげん」らしい
キカイはトラブル(メディアも年数が経つと保存が悪くなる
フロッピーなんて寿命が短いし)などで破損しない限り
データは永久に保存されるけれど、人は
刺激や条件によって簡単に左右される
作者はその象徴として自らの体験「白い手袋」を語った
実際に見ていないはずの祖父の白い手袋を
「鮮明に」「思い出す」事の不思議
人の記憶とはかくも「いいかげん」なのか
ただ、私は書き換え可能な事はいい事だと思う
忘れたい記憶も、もしかすると、書き換えたりできたら
トラウマも軽くなろうから
では、忘れたくない記憶は?
単純に自分のアタマ以外に「残す」事である
日記・・・思えばこれって素晴らしい外部メモリである
最近つくづくそう思っていた
日記やノートを読み返すと「え?こんなことあったっけ?」と
思う出来事もあったり、自分が覚えていたことと
ちょっと違う、という事もある
こうしてWEBに何か書く、というのも
とてもいいんじゃないかなと・・・
人の気持ちは変わってゆく
自分の文章を読み返すと、意見が現在と違う事もよくある
生身のアタマ故、多いに文章で残しましょう(笑)
・・・文章以外に、もちろん絵や写真もいいよね
あと、音楽と匂い。これは言葉を失っても最期まで残り
最初から(胎児)あるともいうし・・・2004/2/25
自殺って言えなかった 自死遺児編集委員会
あしなが育英会
サンマーク出版
親を亡くす・・・しかし、理由が自殺だったら
その事実を世間に堂々と言う事ができるだろうか?
事実を話したら、奇異の目で見られはしないか?
差別されたりしないか?変な同情をされないか?等
親の死以外にも、精神的に苦痛を受ける自死遺児
彼らが勇気を持って世にうったえた一冊
人生(生)は同じ道はないように、死もまた様々だ
災害、戦争、事故、病気、殺人被害・・・でも自殺と言うのは
自分で死を選ぶと言う「特殊な」死因である
残された子どもは多くが、自分も親のように死を選ぶのかと
悩むと言うし、残された子ども、家族に与える影響は大きい
大人とは社会人である
大人は毎日敵と戦って賃金を得ている
「疲れた」と思わないで働き続ける人は少ないと思う
個人差はあろうが、時々「疲れた」と思うだろう
私がホテルのバイト時代4件の自殺があったが
全て働き盛りの男性でリストラや倒産が原因らしかった
ビジネス用の個室の狭い部屋で彼らはなぜ死んだのか
(4人ともビジネス部屋)働く私たちは疑問に思った
家族の所で死ぬと迷惑がかかると思ったのか
死ぬときくらい景色の良い場所、せめてホテルの
見晴らしの良い広い部屋で・・・と、私たちは思った・・・
大人は、本当は弱い
自分が大人になって初めてわかった
からだが大人になり
社会的、経済的に、大人になっても
心が大人だとは、言いきれない
学校で起こるトラブルの数々
いじめや、差別、友達関係のもつれ、教師との軋轢
それが無くならないのは、大人社会がそうであるからだ
金を稼ぐ為に、大人はイヤな上司に頭を下げ
プライドを捨ててイヤな顧客の言いなりになる
働くと言う事は、それ自体サバイバルなのだ
悩んで、悩みすぎて、死しか見えなくなることもあろう
マトリックスのキアヌ・リーヴスが引きこもり疑惑だそうだ
妹の白血病や身内の数々の不幸で
これだけ重なれば、誰だって落ち込む、というほどの悩み
人は不幸がきっかけで、継続することで、追い詰められる
誰だって、死ぬかもしれない。他人事ではない
でも・・・死なない道を皆で考えよう
以前書いたが、お母さんを自殺で亡くした人がいる
彼女の心の不安定さは、そこに要因があるとどうしても思う
親であるなら・・・死んではいけない
私はけっして死なない。そう決めている
ただひとつ息子を亡くさない限りは・・・・・
自分は死なない。他人も死なせたくは無い
でも・・・死んでしまった人を責めるようなことだけはすまい
悩んで燃え尽きた・・・そんな風に思ってあげたい
2003/11/11
ダメ犬グー 11年+108日の物語
ごとうやすゆき 文春NESCO
愛犬グレイスとの11年間を、つぶやきのように楽しく
可愛いイラストとのコンビで綴った1冊
小さい子から大人まで、読める絵本のような本だ
犬を飼っている人なら「ああ、ウチと同じだ」とか
「わかるわかる」とうなずくエピソードに微笑む
・・・が後半から愛犬は病に倒れ・・・そして別れが。
昨年のウチの愛犬の死とオーバーラップし不覚にも落涙
(私との赤い糸で結ばれた犬 今の犬は息子と結ばれている
以上、私の独断、赤い糸の犬理論 笑)
電車で読むのは間違いだった。人がいっぱいいたのに
涙がポロポロ・・・か・・・かっこわりぃー私である (-_-;)
中にこんな言葉がある。愛犬が亡くなった後・・・
グーの夢、よく見る。 |
誰かが亡くなった時、辛いのに思い出したり、夢を見たりする
それは本当に悲しくて、どうして繰り返し悲しくなる事を
思い出させるのかと神様を恨んだりする
でもこの作者の言葉が、それは、必要で大事だと教えてくれた
頭に残そう、いい言葉だ・・・
「それはきっといいことなんだ」
悲しみを乗り越えるには、悲しさこそ必要なのかもしれない
消えてしまったいのちを思うとき |
誰かを失った後で、思い出されるのは本当に小さな事や
ふだん気にもしない事で、それに気がつく事はあまりない
実は毎日生きていて(自分も、人々も)こうしているという事は
奇跡かもしれないし、ただ、生きているだけで、スゴイんだと思う
淋しさに耐えられずダンナが飼ってしまった今の犬もまた
いつかは、老いて死んでゆく。どんなに若く健康であっても
死は、みんな同じだ
父が死に、おじいちゃんが死に、おばあちゃんが死に、友が死に
・・・自分が生き続けることで、他の人の死を見なければならない辛さ
いっそのこと、誰も好きにならず、大切に思わなければ
人との別れ(死)がこんなに辛くはないものを・・・
自分の事もて大切に思わずいれば、自分の未来も恐くなくなる
でも!
生きている意味のひとつは「人」だと思う
人を愛しく思い、自分自身も大切に思う、やっぱりそのほうがいい
別れが辛くても、きっと何倍も「しあわせ」だろうから
さて。理屈は抜きにして、この本を「楽しんで」下さい
テロメアの帽子 不思議な遺伝子の物語
森川幸人 新紀元社
絵本の感想文はむずかしい。この本はさらにむずかしい
それは絵を見て「感じて」というウェイトが大きいからだ
CDケースくらいの小さな本でとぼけた、かわいい
登場人物が出てくる。色あいもほのぼのとした絵本と違い
摩訶不思議な雰囲気をかもし出す
例えば巻頭のお話「溶けた泥棒」は帽子をかぶった泥棒が
ある屋敷に侵入するが隠れた部屋にはたくさんの帽子があった
帽子の間に隠れているうちに体は溶け帽子だけ残る
その話はDNAの中に取り込んでしまっているウィルスの話
「DNAに忍び込むウィルス」という隠れたお題がわかる
なるほど。私たちの体は、細胞はそうした侵入者や間違いで
DNAの中に入って出られなくなったモノによって
変化したり子孫に受け継がれたりしてゆくのかもしれない
巻末に「絵本のなぞとき」があり詳しく説明されている
でも理屈はどうでもいい。このもやもやとした雰囲気がイイ
絶対音感 最相葉月 小学館
音を即座に音符に置きかえられる人たちがいる、らしい
例えば風の音やダクトの騒音、電話のコール音など、それらが
音階で聞こえる。一瞬うらやましいと思った
小学生時代から歌ったりするのは好きだった、だが
自分で演奏はできないし、ちょっと自作で口ずさんだ曲も
すぐ忘れてしまう。その音を音符に書けないからだ
大好きなビートルズもユーミンも私は演奏できない・・・
キーボード、ベース、パーカッション、と演奏できた父の子は
音楽(演奏)に反抗してついに音感を磨くことはできなかった
自業自得だ。でも絶対音感が備わったかどうかはわからない
だから絶対音感は「未知の世界」だ
本に出てくる人で、最新のヒット曲をカラオケにするために
音を聞いて楽譜に起こす、そんな人がいる。確かに友人にも
音を拾って楽譜にできる人はいた。すごいと思った
よく3歳からやらないとピアノやバイオリンなどはモノにならないと
言われるが絶対音感もまたタイムリミットがあるらしい
絶対音感が必ずその人に福音なのかというとそうでもないらしい
あらゆる音を「音符で」拾ってしまって音を楽しめないとか
音程が狂っていると気持ちが悪くなる、音に感動できない
など持てる者の悲劇というのもあるのだという
SFなどで精神感応(テレパシーとかESP)できる人物が
こんな台詞を言う。さまよう人間を追いかけている時の会話
「エスパーだろ?さっさと見つからないのかよ!」
「ムリよ!テレパシーというのは千本のテープを同時に聴くような
ものなのよ」この台詞で絶対音感のある人の感覚を想像した
私たちにしても音を聞き取っていないわけではない
だが・・・たぶん聞こえ方が違うのだ
海を見る。ああきれいだなとか、青いなとか、恐いなとか
人によって感想が違う。中には「深度はどのくらいだろう」
「海洋汚染は?」と計算し始める人もいるだろう。
そんな風に数字的に「見る」人がいるのだから
音もまた「情報」として聞く人もいるだろう
ところで。意外な話も書かれていた。それは戦争で音感教育が
取り入れられたと言う事である。潜水艦はレーダーが使えないから
ソナー(音波。水中でも使える)を使うし
航空機の近づいた音など分かれば敵機の近づくのがわかり高射砲が
使用できる。絶対音感は利用できる・・・というわけだ
音楽を愛する者としては絶対音感を戦時利用したことは腹立たしいが
そういうこともあった、らしい
音楽は右脳で聴いているとされるが絶対音感を持つ人は左脳の言語野が
大きいという。音を言語としてキャッチ?脳と音感の研究ははまだ
よく分かってはいないらしいが。
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突然ひらめいたが動物は言語を持たない、が意思の疎通は出来ている
吠え方や匂いなど五感で「感じる」ということは言語によらないが
左脳を使っているのか?それとも言語としてでなく「感覚」として
右脳を使っているのか?私が音(曲)を聴くとき快、不快しかない
それは動物のそれと似ているのかもしれない。頭をなでられた、快
お預け、不快、など言語の元はきっと・・・感覚
平然と車内で化粧する脳 澤口俊之 南伸坊 扶桑社
日本人はどうして「お子ちゃま」なんだろうか?
そんな疑問に答えるすんばらしい(笑)本である
まず、ネオテニーという耳慣れない言葉から始まった
それは幼児形態のまま成熟・繁殖することである
私たち日本人などのモンゴロイドは、脳の進化過程が最も未熟らしい
げげ?それってお子ちゃま?バカ?と傷ついて読み進むと
どうやらそうではなさそうだ(ネオテニーの一番が日本人だそうだ)
この未熟性はその種の進化に大いに貢献する
普通、動物は生まれてすぐ自力で立て歩く。が、人は生まれてから
1年もしないとできない。親の保護と長い教育(学習)をしないと
生きられない。何故こんなにも不完全に生まれてくるのか?
実はその不完全さがカギ。長い学習期間により、脳は大きくなって
発達してゆく・・・
と、いうと聞こえは良いが小学校の算数もできない20歳や
子どもを虐待する親、子どもにいたずらする大人、などなど
そういう「未熟」が進化といえるんだろうか?
ちなみにこの未熟性は発達障害、脳障害とさえ言えるそうだ(え?)
だからこそ日本人は大いに発達する可能性と「壊れる」可能性を
秘めている。世界一子どもの期間の長い日本人
子育てに苦労するのは当たり前
何かと話題の「子どもの部屋」だが、意外にそれにも触れている
赤ん坊の時から一人で寝かせる欧米は好奇心と独立心の発達した
コーカソイド(白人)に、あっているが
子ども期間の長いモンゴロイドは境目の無い大家族型がいいらしい
モンゴロイドには別の情緒発達があるのだ・・・
脳の欲望 死なない身体 医学は神を超えるか
野村進 講談社+α文庫
医学などの発達により恩恵もあるが新たな問題も発生している
それをわかりやすくレポートしている一冊だ
死・性・食・形・老い・誕生という各章はそれぞれに一考モノだ
中でも「食」「形」は先進国に芽生える文明病だと私は思う
食・・・拒食症や過食症では精神バランスを欠いて食べる事への
恐怖と共にやせ細ってゆく自分の体を(ガリガリ。骨と皮)
自分自身の肉体を支配している、という征服欲にとらわれるという
それは、いつかテレビで見た拒食症の女性の水着姿を思い出させた
彼女もまた30キロ代の体重でありながら体重増加に怯えていた
あの骨と皮の姿を「ダイエット前と比べて美しい」と思う感覚は
もはや尋常とは思えなかったが、そうした食の以上は精神的な
問題と深くかかわっているから、仕方がないのだ
以前少し書いたかもしれないがダイエットのし過ぎで亡くなった人
がいた。まだ20歳くらいだったか。全然太ってもいなかったのに
モノを口にできなくなり最期には病院のベッドで息絶えた
親戚で末期の病だった叔父がいた。点滴から栄養を取って
(もはや口から栄養が取れなかった)チューブにつながれていた
にも関わらず彼は数ヶ月を生き抜いた。意識のはっきりした日には
笑顔も見せていた。そこには生きたいという、生きる意思があった
でもダイエットで亡くなった彼女は同じ点滴で生き延びられなかった
不治の病では無い、食べ物を口にできればたちまち回復できる体を
持っていながら、である。死に至る病・・・それは肉体を蝕む
色々な病魔ではなく、人の心の隅に(誰にでもきっとある)住む
のだとそう思う。
形・・・美容整形の事である。これもまた先進国に許された贅沢の
ひとつだ。私は整形を否定はしない。その人がコンプレックスを
克服できるのならそれでいい。後はケガなどでエレファント・マン
のようになってしまった人への整形は美容をこえて医療と思うし。
しかし、どうも最近は事情が違う。自分を変えたい、一心で整形
それは自己啓発セミナーのように「自分を変えたい」という事だ
セミナーは「中身」整形は「外見」になるだけで・・・
著者は三島由紀夫の一文に触れている
精神のことなんか置きざりにして、外見だけ美しくしようという |
私自身は整形は(ケガでもしない限り)したくはない
肉体は父親と母親の遺産なのだ。愛の結晶などと子供の事をクサク言うが
それは肉体の遺伝というだけでなくふたりの出会いや愛情を持つ過程
など親の歴史がそこに眠っている。人のDNAに人類の歴史やロマンが
眠るのと同じように肉体には両親のそれがあるのだ
顔は顕微鏡で調べなくても「お父さん似」「お母さん似」などすぐに
わかる。その家のカンバンだ。もちろん親に愛されていなかったとしても
カンバンは付いている。親と同じ顔を嫌い整形した話を聞いた
単に母親似の下ぶくれの平安顔が嫌だったらしいが、娘にそう言われたら
親としてかなり悲しい。ただ親を憎み親の顔を取り外したいと
整形する場合もあるかもしれない。それを非難はできないが
できるなら親からの「顔」を気にしないくらい強く美しくなってと思う
ちなみに私の顔は愛してくれなかった父にそっくりである
が、彼からもらった顔は数段立派に磨いている ザマーミロ(笑)
(注:立派とは書いたけど美人とは書いていない 正直者 笑)
さらに。全然私と似ていない母親は色白の昔はかなりの美人だった
ふん。野性美なら負けてないぞ (~_~メ)