読書かんそうぶん 心理・犯罪・宗教
歴史をかえた誤訳 鳥飼玖美子
原爆投下はポツダム宣言での誤訳が原因だった?
そんな見出しに思わず手を取った一冊
読んでいると通訳というのは文化の橋渡し役だなあと思った
日本人のよく言う「善処します」とは曖昧にNOを言っているが
外国人から見るとYESになる。何事もはっきり言わない日本人
特に否定を強くいえないので、そんなすれ違いが起きる
身近でも食べ物をすすめられ、嫌いな物であった時
親しい人でなければ「これ嫌い」とはっきり言いづらい
「苦手で・・・」と何とかしぼりだすか、少し手をつけてみるとか
気を使うのではないか?(私の年代はこんな人が多い)
日本人はシロクロはっきりしない灰色のゾーンもある
YES,NO以外にももやもやゾーンがある
でもそれを外国人にも当てはめない方がいい
特に政治や経済の話の場では・・・
本の中に比喩の難しさも出てくる
比喩と言うのは文化に根ざすから、当人だけがわかっても
他では意味不明のこともあるんだなあと再認
私は唯一理解し、駆使できるのが日本語である
だから通訳の思考回路がわからない
常に日本語と言うベースで英語も考えているからである
だから私の英語とは「日本語」の中のひとつ、と言ってもいい
I
have a
dog.
これは私は犬を飼っている、と言う日本語を先に考え
後から英語をパズルのようにあてている
でも、これが私の本当に言いたいことかどうか?
英語の飼うというhaveは持つという意味があるが
日本語の「飼う」と微妙に私には違う響きに聞こえる
犬を持つ(所有)しているというよりも、暮らしている、と思うから。
まあ、それでいくと日本語の「飼う」も好きな言い方ではないけれど
犬と「話す」時、あるいは赤ん坊の頃の息子と「話す」時
言葉であって、言葉ではなかった
「どうしたの?お腹すいた?」あるいはぎゅっと抱いてみたり。
感覚で通じる、気がする、わからなくても、まあいいかと妥協する。
でもスキンシップだけで十分かと言えば、そうではない
言葉の通じない彼らでも「私」には声を出し話すのは必要だった
でも・・・言葉は全てではない(ああ、矛盾 何を言いたいか
こうして日本語さえもうまく使えない 笑
色々文章を書いていても、本当に自分の言いたい事を
すっきり、うまく表現できたと思えない事が多い
単に下手なのかもしれないが)
外国人と私的なコミュニケーションを取るならば
言葉は半分で良いかもしれない(でも絶対必要なんだけど)
ああ。でももっと英語を勉強したい
読みたいサイトが英語だったりしてもお手上げなんである
翻訳ソフトもオシャレな訳をしてくれて意味不明だったりする
留学中の親戚の子からメールが来ても英文だから
(学校のパソコンは当然日本語に対応していない)
ケンカ売ってんのかこらー!って思いつつ辞書を引いたりする
洋楽サイトも英文が多いし、脳細胞が死滅して行く年代に
英文はツライのであった。とほほ・・・
とにかく。世界で重要な仕事、通訳
その大変さ、面白さを感じた一冊であった 2004/1/14
Search〜きみがいたGID(性同一性障害)ふたりの結婚
平安名祐生・恵 徳間書店
夫、祐生は肉体は女性で、妻、恵は肉体は男性
俗な言い方をすればダンナがオナベで妻がオカマ・・・である
一見好奇な目にさらされそうなふたりだが
互いに出会い、ときめく様子はどこにでもいる普通のカップルである
そのドキドキ感が伝わるような書き出しで、とても愛らしい夫婦の
記録・・・と言う感じで読めた。友達とおしゃべりのような感覚の文章は
親しみやすく、内容の重さ(性の悩み以外にも家庭不和の話など)も
感じずに、サワヤカに、読み終えた
若い人にオススメの本だから
本当は息子に読んで欲しいけれど、字を読むなんてとんでもない!
ゲームの攻略本以外の読書は彼の脳にはない
ただ、TVやWEBに抵抗は無いので「考える」きっかけに
そんな媒体を使っている。少なくともお笑いやアニメ以外の
ニュースやドキュメントなど一緒に見られるのはありがたい
(奇しくもこの本の中の夫、祐生氏が書いていた
学校の先生の言葉でためになった事・・・
「バラエティー番組ばかりでなく、最初は退屈でもNHKのドキュメントや
自然紀行のような、つまらないと思う番組も見なさい」という言葉だそうだ
そうだ、そうだと、私は思った
TVやWEBなどのメディアでバカになるか知恵がつくか
本人の見方(選択)次第なのだから・・・
生まれた時から自分が今の性であることは
当たり前だと思ってきた。多くの人がそうであるように。
思春期には異性にときめき、社会に出てからは「社会的にも」当然と
自分の性を確定していった
時には性差による不満や反抗で自分の性を否定したい時もあった
思春期には成長し変化してゆく自分の肉体を嫌悪する時もあった
(これは多分大人になる、と言う事に対する不安感から)
だが、自分の生まれ持った性に疑問を持つ事はなく
流れるように自然なものだと思ってきた
だが、そうではない人たちもいる
彼らは幼い頃から、自分の心と体のミスマッチに悩み
社会からの無理解に傷ついてきたのだ
人は男は男、女は女、それに付随する役割分担
それがまっとうな生き方で、外れたら「まともじゃない」
そんな考えは道徳でもなく、正義でもないのに
「みんな同じ」を正しいとする
逆に言うと、みんなと同じでない人を恐がっている
自分たちの理解を超えた人を、恐がっている
世間は、人は、臆病なだけかもしれない
こうした人たち(病気をもった人や、色々な社会的ハンデをもった人)は
自分の過酷な状況により、深く考える力のある人が多い
悩む=洞察・・・精神的に鍛えられ何かを得ているようにも思える
もちろん、人は色々だから、イヤな人、悪い人、もいるだろうし
自分のハンデに絶えられずゆがんでしまった人もいるだろうから
あくまで大雑把な意味だけれど・・・
私は、同性を愛する人たちをいけないと思った事は無い
逆に言うとそれを非難する事がよくわからない
異性であれ同性であれ、愛し合う事は自由であるはず
好きになった相手が異性か同性か
それはそんなに問題なのか?
子どもを望む、という点では確かに同性のカップルでは
ハンデはあろうが、異性カップルでも子どもを持たない、あるいは
持てない者もいるから、あと問題は世間・・かな?
自分の価値観が絶対で、自分の理解を超えることを認めない
それが人をいじめたり、非難したりする元なんだけれど
人は大なり小なりそんな考えは持っている
自分以外の価値観を受け入れる・・・本当はむずかしい
そこを何とかちょっと、門を開くようにすると
世の中もっと生き易く楽しいかもしれない
同性愛を悪くない、というと「じゃあ息子がそうだったら許すの?」
「ダンナがそうだったらどうするの?」
こんな質問をされたらどうしよう
本当の肯定とは自分や家族がその立場になっても
肯定できるかどうか、であろうから
自分に子どもがいる・・・では、次は将来孫を見たい
そうぼんやりと夢に見る。そんな親の「ふつうの」願望はあるから
息子が異性を愛せなかったなら、正直ショックだろうと思う
また世間の目も気にするかもしれない
でも・・・大事なのは息子自身で、子孫を残す事でもなく
世間体でもないのだと、息子を守る盾になる
そんな親を目指して修行しよう(まだ親としては初心者マーク
ダメ親で免停寸前ってところか 苦笑)
ダンナだったら・・・コリャ大変だ(笑)さて、どーしたものか・・・
ただし元から異性がダメだったなら、私が騙されていた事になる
それは「騙されていた」事を怒る
っていうか基本的に同性でも異性でもウワキは問題だっ(苦笑)
そう言えば本の中に、妻めぐみさんが男の子だった頃
タレント事務所にいて、その頃、仕事をもらう代償に
「男性」から「要求」されたそうである
私はふと、思った。女のタレントさんが、売リ出すために
体の要求を受ける・・・エライ人と・・・そういう噂をよく聞くが
男の子を求める男性がけっこう多いんだなあと。
一般に思っているよりも、はるかに同性を性愛の対象に
している人は多いのかもしれない 2004/1/10
ローラ叫んでごらん リチャード・ダンブロジオ 講談社文庫
泣き声がうるさいと両親にフライパンで焼かれた赤ん坊
彼女は成長しても言葉を話す事はできなかった
そんな彼女と運命的な出会いをしたのは
自身もイタリア系移民の子で英語ができないために
知的障害と見られ、やがて苦学の後に(貧しい家庭)
精神科医となった著者である
彼は月単位などでなく何年もの時間を
全く変化のない、動かない、無感情の、ローラと接し
ある日ローラは堰を切ったかのように話し始め・・・
私が10代の頃だったか、この本を読んだ事がある
それが文庫で新装版になっていて思わず買った
昔は両親に愛されない、フライパンで焼かれたと言う事を
自分が劫火に焼かれたような思いで読んだが
今は親になり、どうしてそうなってしまうのか
親もまた人間で病んでいたり、親自身の成育歴など
親も人間、親だって弱い
そんな気持ちも混じって読み終えた
完璧な人間などいない
完璧な親などいない
でも、生きられないようなトラウマを子どもに残す事は
やっぱりいけないから、親も自分を癒しつつ
育児しないといけない
そんな気分になった
親は忙しい
ご飯のしたくなんかが忙しいのではなく
(それも忙しいけどね 笑)
自分も面倒見つつ、子どもも面倒見る
2人分の自我を子守りする、それが忙しい
大人は常に癒されていなければいけない
ゆとりがないと他人にやさしくなれない
難しい事だけれど、他人にやさしくしたいから
まず、自分・・・2003/10/18
不幸になりたがるひとたち 春日武彦 文春新書
サブタイトルには
自虐指向と破滅願望、と書いてある
本の中に本屋の店員にカバーをかけてもらえなかった事を
落ちこんで「自分はカバーもかけてもらえないダメな人間だ」
と首を吊ろうとした男の話しが載っていた
男が買った本は時刻表.普通時刻表にはカバーはつけないものだ
男は自分はダメと思いこんだ.郵便ポストが赤いのも皆私が
悪いのさ、なんて昔言ったんだけどまさにそう言う思考だ
ここでカバーがない事にこだわるのなら、攻撃性のある人は
店員を恨むだろう「何で私にカバーをつけないんだ!」と怒る
人の思いもよらぬ事がきっかけになり自殺まで思考を駆りたてる
不幸になりたい人たち・・・・・
でも気持ちはちょっとわかる。自分のどこかに百パーセントの
幸せではかえって不安になりそうな気持ちがあるのだ
実は幸せで良いんだけど「ちょっと」不幸である状態を
意図的に作り出したい自分・・・って、わかってもらえるだろうか?
ちなみにホテルのツワモノオバちゃんはまさに逆だ
カバーをかけなかった店員に嵐の抗議をするだろう。しかし
例えば「痩せたね」というと「どうせデブだわよ」
「あの人の今日の服素敵」「どうせあたしゃボロだわよ」
と言うように良い事をいっても悪く捉える思考回路は
自分をダメだと思う男と同じかもしれない
宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作
高沢皓司 新潮文庫
1970年日航機がハイジャックされた時私はまだ小学生
今の息子よりも小さかった。彼らが外国へ「ぼうめい」したと
聞いたときこう思った「なぜこんないい国から逃げたの?」と。
幼かった私に答えるために買った本である
まず読み進んで驚いたのは彼等は本当は北(北朝鮮)へいくつもりなど
毛頭なかったという事で、キューバに行きたいところを頓挫した。
彼等の純粋さ、幼さと、革命を起こす信念とのギャップ・・・・・
北では客品待遇であったというがただ一つ自由がなかったという。
北の思想である主体(チュチェ)思想には懐疑的で、論破してやると
意気込む彼らもいつしかその虜になっていた・・・
北の教官は決して威嚇や暴力で思想を押しつけたのではないという
いくつかの選択肢がある場合どれを選ぶのかは自由だが
ある一つの物だけを選ばせる為には他を選択した時に
再考させる・・・そのテクニックは私にもなんとなくわかる
例えば信号がある。赤。黄。青。どれで渡りたいですか?
青と答えるとする。安全に信号を渡りたい、と。
すると相手は「それがより良い方法ですか?自分にも他人にも
迷惑がかかりませんか?もういちど考えてみましょう」という
そして赤で渡るのが一番いいと言うまで繰り返すのだ
その時赤で良い理由は何だっていい。赤は美しい色です、とか
赤で渡って危険でなかったなら運がいいという事ですよ、など。
すると「信号機は赤で渡るのが一番いい」という刷りこみがなされる
それは本人には「強制されたものでなく自分で考えて選択したもの」と
考えている。もちろんそれは思考の誘導によって刷り込まれたものだが。
もうひとつの重要なブレイン・ウォッシングは自己批判・相互批判である
その名のとおり相手を糾弾する。すると何が起こるか・・・
まず自己嫌悪、人間関係の悪化や希薄化、それらにより自我は縮小してゆく
著者はその過程を日本で起きた連合赤軍の浅間山荘事件での凄惨な殺戮に
つながる「総括」「粛清」を思い出したと書いている
大きな思想の核の部分から小さな日常のくだらない事まで
容赦ない非難の嵐にさらされ人は平常心ではいられない
(だからいじめは辛いのだ。日常的に繰り返される自分への批判!
机に、靴箱に死ね、バーカなどと書いてあったら?それは
死んだほうがましだという暗示をその人にかけている
そう思うといじめは洗脳、犯罪といえるかもしれない))
私がすぐに連想したのは・・・そう、自己啓発セミナーの過程の一つ
強い非難によって自我を崩壊させるテクニック、であった
待遇は良いとはいえ自由はない、幽閉されたような環境でそれらの「学習」を
繰り返せば体罰なくして人の心はあっさり変わるのだ
(あなたも、私も きっと)
途中悲しくなってしまった。死をも覚悟して日本から離れ大犯罪を犯して
そうまでして日本を、世界を憂いて決起したはずの若者は
あっさりとその信念、自我までも、忘れてしまったのか、と。
自我とは、信念とは何だろう?あやふやなものだというのなら
人がそれに命を賭けるのは無駄だというのか・・・わからない
BGM: DIAMOND A FOREVER BY.GAZEBO(なぜか邦題が「革命の灯は燃えて」
になってまして、まあ見え見えの選曲。音楽的にはポップで悲しい
まさに80年代のユーロです。この手の曲想は日本の歌謡曲に
通じるフィーリングかもしれません。あ、むかしの、ね)
ペーパーアイドル 野浪まこと ザ・マサダ刊
テレビタックルかなあ?ケータイの出会い系サイトがらみの事件
の事を話していてゲストだった野坂昭如氏が「でもモテナイ僕なんて
僕らの時代にこう言うのがあったら良かったと思うよ」と言って
私は大いに笑っていた。考えてみると積極恋愛のきっかけとなる
このサイト、悪く言われがちだが犯罪性を除けばこんなに
フリーの若者の味方もないと思う
で思い出したのがこの本だ。これは98年の本で当時「じゃまーる」
なる出会い系雑誌が出ていたそうだ。そこに登録した数名の女性に
インタビューしたものだ。その雑誌は今でもあるんだろうか?
今はご存知のようにケータイ主流になったから・・・・・
以前読書コーナーで紹介したAV女優などの流れで、この本を買った
風俗でない普通の女の恋愛観・生活観みたいなものを見たかった
で印象に残ったのは二人の女性だ
一人はインタビュアーがおどろくほどの美人なのに自分は
全然イケていないと思っている人。超箱入りで女子校だったそうで
男性からの誉め言葉を信じていない。なんちゅーもったいない!
美人かどうかは世間の判定と自分の判定の二つで決まる
いくら自分が美人だと言っても世間がノーと言えば美人ではなく
世間的に美人でも自分が納得かないとこれもまた不美人・・・
最終的には自己判断だと思う。世間より自分の判断が優先だ
しかし彼女のように自分に自信がないのなら・・・もったいない
もう一方の女性は見た目ゆうに80キロを超えているだろうと言う人
彼女は自分の容姿を「太っている」とは絶対に認めないという。
著者は彼女が太っている事が問題ではなくそれを認めない事に
苛立つという感じだ。人はコンプレックスがある
絶対人に言われたくない事を聞かれた時、恥ずかしくなったり
怒ったりする、それをはぐらかす為にうまく話しをそらしたり
小細工をするものだ・・・多分彼女はそうだったんじゃないか
話がうまく噛み合わないまま時間は過ぎたようで
太っているからモテナイのではなく、多分彼女の気質が
男を飽きさせるのだと思ってしまった(同性から見ても、いる)
その太った彼女が出会い系雑誌のおかげで50通もの男性からの
手紙を受け取った。一度に50人の男性からの自分への・・・
その心境はわからなくもない。異性の自分への関心を不快に
思う人は少ないだろう。しかし肉体の見えない雑誌というツールで
ある日突然もてる女になる事は危険だ(犯罪という意味でなく)
ふと昨日のありの巣コロリを思い出した(笑)
餌に吸い寄せられ群がるアリ・・・
自殺 生き残りの証言 矢貫隆 文春文庫
自殺者は年間交通事故死の2倍だそうだ。驚いた!
この本はそんな自殺の中で重度の自殺ミ未遂者にインタビューしたもの
俗に言うリストカットはほとんどが死なない程度の「本当に死にたい」
行為ではないらしい。ところがある一定のレベルを超える重症で、しかも
何度も繰り返すは「本気で死にたい」ということらしい
面白いのは助かった後インタビューで自殺を図った直後意識がなくなる前
誰もが「もうあのテレビを見れない」「水着を買ったのに着れない」などと
この世の未練をちょっとだけ覗かせるというのだ
これを書いていたらテレビで女子高生二名が飛び降り自殺したとニュースが。
遺書には「死にたい理由もないけど、生きていたい理由もない」と
あったそうだ。死にたい理由・・・私なら喪失感と答えるだろう
例えば家族を失った時愛を失った時などなど。人は誰でも大事なものを
いくつか持っている。それが仕事だったり恋人だったり友達だったり
家族やお金、何でも・・・そして自分
喪失感。大事なものが何にもない、失って悲しいものがないならばどうだろう?
何もないなら自分は?もしも自分も大事でないのなら
死に向かうのは当然なのかもしれない。何もない事・・・無くす事とは
どこかが違う。自分が何かを持っていて失ってしまった喪失感と
始めから何もない場合と・・・違うと思う。
もう一つ「生きる理由」を考える。うーん、生きる理由とはなんだろう?
これに答えを下さい・・・理由はわからないが目的は「ひと」かな・・・
自分も含めて。愛憎入り混じった「ひと」の世界を見ていたい
診断名サイコパス ロバート・D・ヘア ハヤカワ文庫
サイコパスと言う言葉を聞いた事があるだろう。
精神病質で自己中心的な性格で周囲にトラブルを巻き起こす
困った人々だ。異常犯罪者もそう呼ばれる。
カルト関係を探していたらこの「サイコパス」という
キーワードに当たった。興味を持って本を物色
(カルト教祖にサイコパスが多いと聞いたから)
彼らに共通しているのは良心が欠けている事、だそうだ
良心というとわかりにくいなら相手に対する想像力と
言っても良いだろう。こんなことをしたら相手は
どう思うか,どう反応するか、行動をする前に考える事
それが「良心」の機械的な解釈だ
相手の身になって、思いやりを持って・・・
これらが意味するのも同じことだ
良心は相手だけでなく自分をも守る。社会的に敵を作らず
生きていく方法だ。良心の社会的規模のものが「道徳」
サイコパスが良心に欠けているのは何故だろう?
生育歴,脳の異常,色々あるだろうが私はそれが治るものとは
思っていない。もはや彼らに良心を根付かせる事は不可能だ
学問的には原因はまだわからないという
貧困や家庭に問題が無い場合でも一定の割合で生まれると
言うならば,恐ろしいし、なぜ生まれるのかと
サイコパスの存在の意味を考えてしまう
近年の青少年による異常犯罪「酒鬼薔薇聖斗」事件や
17歳の「バスジャック事件」連続幼女殺人の宮崎など
彼らが社会に適応する感覚を戻せるとは思わない
心理学・精神病理学などの分野は肉体の医学ほどには
発達していないと思う。医学に例えたら心理学はまだ
やっと神懸りをやめて山から取ってきた薬草を使うように
なった程度で心臓や胃腸の構造は謎のまま・・・
肉を切る刃物を開発していない・・・と言った所
サイコパスは一方で強烈な自己意識を持つらしい
自分が世界1なのだ。そう思うことは悪い事ではない
自分に自信がある人はゆとりもある
しかしサイコパスは自分が1番で人は世界にいないのだ
最強の自己中サイコパス!
ところでトマス・ハリス「ハンニバル」が人気だそうだ
カニバリズム・・・かちかち山の婆汁を思い出すのは
私だけ?
「死なう団事件」 軍国主義下のカルト教団
保阪正康 角川文庫
中に出てくるひとりの男は
家がそこそこに裕福なので仕事にも身を入れず
家族の世話になりながら自分の信仰の勉強に励むのだ
それはおかしい。成人で働く能力がありながら
親のすねをかじる。信仰に励むものには。世話をする家族など
俗世間に汚れた人間かもしれないが,生きていく以上
食べていかねばならないのに、食べる(生活する)という
基本を他人に依存していく事は、おかしい。
生きる行為を俗なことと言い切り人の世話になる、ならば
俗人に寄生すると言う事ではないか
中世のヨーロッパも労働は卑しい事とされ働くよりも
信仰を重んじろといわれた時代があった
肝心の教会や王族は働く庶民に寄生していたのに・・・
すねをかじるのが悪いのではない
すねをかじっておきながら、周囲のことを考えない事には
反対なのだ(すねかじりちゅうの方ご安心下さい
感謝してかじってくれれば親はうれしいです)
(以上毎日の通信から抜粋。ズルですね)
ふと思ったのは日蓮系の仏教はインパクトが強いなと。
排他性にあるのかな。自分達以外に真実はない、という
強い主張は個性なんだけど。トラブルの目もまたそこに。
洗脳体験 二澤雅喜 島田裕己 JICC出版
一昔前自己啓発セミナーなるものが流行った
これは1991年出版本だが,セミナーの流行はもう数年前に
始まっていたようだ。最近あのミイラ事件のカルト教団
「ライフスペース」の前身がセミナーだったと言う事で
記憶を思い起こした人も多いと思う
自己啓発,人格改造とは一体何?
高額なお金で合宿などの体験により人格を変えると言うモノ
大体,前向きな,積極的な人格に変えるという・・・
今もセミナーと言う名ではないにしろ自分を好きになるとか
自分の生活を楽しく感じさせるとか,前向きな講座があるらしい
海外にも行くそうだ。それで,その人が幸せ感を得られれば
そのセミナーは良いと言える・・・のだろうか?
人格改造と言うのは可能なんだろうか?という事を考えた
人格と言うのをあいまいな言葉だ。性格とも違う総合的な
精神の個性を言う。それを変えるというのは洗脳に近いと思う
ある意味では人は自己改革を求めている。洗脳されたがっている。
イケナイとわかっても薬物をやってしまう人がいるように
アブナイとわかってもカルトに惹きつけられる人もいる
セミナーの(この本による)核はグループになって
ホメあったり,一転して罵り合ったり,自我と言うものを
破壊する事から始まる。その後「より良い」前向きな、さわやかな
自分を形成して完成。私としては人格改造後の素晴らしき人間よりも
犯罪者になってもサイコパスでもいいから「自分」でいたい
せっかくの自分をどうして失うのか・・・辛すぎる
暗鬼 乃南アサ (出版社忘れた 今ともだちの所なので)
なぜこの本を思い出したか?というと、セミナーの自我の破壊に
近い表現があったからだ。あらすじは,8人の大家族に普通の女性が
嫁に入った。家族は全員ニコニコしている良い人たちだが
怪しい行動も目立ってくる。食べ物に何か混ぜたり(薬物)
そのうちホメまくられ気分を良くしているといきなり
雨戸を閉められ全員からののしられる。ついには「自分はダメなんだ」
と・・・自我は見事に崩壊する(続きは読んでみて)
それはセミナーの手法に似ていた。
情緒がアップダウンする事は変動が激しすぎると普通でも混乱する
(と思う)泣いたり笑ったりジェットコースターな人は
ホントシンドイと思う。そんな状況を意図的に作り出すのが
人格改造術ではないかな・・・でも・・・こわい・・・こわすぎ・・
「オウム真理教事件」完全解読 竹内俊樹 勉誠出版
一冊オウムの本を載せておく。オウム事件の本の中で教義と実践について
ルポしてあるが割と読みやすいので。ポア(殺害)の理由は教義にある
それを知りたくもあった。それで上の「カリスマ」を読んで思い出した
のがこの本だ。オウム事件も風化してくる。時間というのはそういうものだ
時間は無情だ。記憶が薄れた頃また新しいカルトがきっと出るだろう
雨後のタケノコのように。それは致し方ないがその時に私達はきっと
こういうのだ「オウム事件があったのに・・・」と。
人の心の脆さ。簡単に操られるという側面を認識していたい。
騙されない人はいない。強弱はあっても誰でも危険はあると思う。
先日テレビで悪徳商法の何十万円もの布団を老人相手に売りつける所を
やっていた。要らないと泣いて訴えるおばあさんを相手にすごむ若い
セールスマン。やはり精神的弱者を狙うのだ。
うちの近所や母親にそんな事言ったら私は許さんぞと思う。
あれは脅迫という言い方だ。テレビを前に燃えた(局の思枠にはまった 笑)
うちの近所で昨年公民館で似たような業者が来た。しかし年寄りは
誘ってもそれ以外は声をかけない。その後は公民館は借りず
近所の家で何やらやっていた。あれってもしかして・・・
世の中洗脳に満ちている。心理学もどきが一般にも知れているから
みんなソコソコの「洗脳テクニック」「されないテクニック」を
持っている。こうなるともう、世の中騙し合い・・・
できれば騙されたくないし騙したくはないが、それは甘い、かもよ