読書かんそうぶん 小説・物語など
エコール・フレネ
ほんとだよ! フランスの子どもの詩
M・ボルモン編 比留間恭子:訳 邑書林
フランスの子どもたちの言葉をそのまま本にしたものだが
子どもの言葉というのは美しいなあと思う
このフレネという人は子どもをあるがままに伸びやかに
育てようという主旨の教育法を考えた人であるらしい
訳者のあとがきを抜粋すると
フレネは第一次世界大戦に動員され、毒ガスで肺とのどを
やられて帰還し、田舎教師の職につきます。貧しい設備の学校で
貧しい家庭の子どもたちは、教科書や学習に全然興味を
示しませんでした。(略)そんなある日彼が教室に行くと、
ジョゼフの机のまわりに子どもたちが集まってわいわい
騒いでいるので近づいてみると、何とかたつむりにレースを
させていました。
おれは栗色のやつにかける
おれは灰色のやつだ
ちがうさ、一等はおれのぶちだ!
灰みどり色のが勝つさ、見てろよ!
フレネは黒板に向かい、子どもたちのいうことをぜんぶ書きとめ
はじめました。(略)
子どもたちは文字で書かれた自分のことばを声に出して
読みました。読んだり書いたりすることに何の興味も
なかった子どもたちにとって、これは大変な事でした
フレネが考えた教育法とは机上の教育論でなく生きた、子どもの
目線の教育だったのだ。もちろん今のフランスや日本で
この方法がいいとは言えないが、テキストやテスト以外の道
それらに合わなくて辛い子ども、などの選択の一つになったらいい
私は今の日本の教育を悪いとは思わない。でも、それに
ついていけないなら別の選択肢があるといい。たくさん・・・
詳しくは知らないが新聞等でも紹介された事もあるらしいし
日本でもフリースクールとしてフレネの学校というのがあるという
なるほど。フリースクールに、ぴったりの考え方かもしれない
***********
モジリアニ
モジリアニ 目がない
モジリアニ 青白いかお
モジリアニ 悲しい
モジリアニ 100も目がある。
マルク7さい
******
どうしてわたしたちは
どうして
わたしたちは
地球の上にいるの?
何か わたしたち
役に立つのかしら?
マリー=ルイーズ 7才
深い河 ディープ・リバー 遠藤周作 講談社
「空気」のようであった妻が他界した
生きている時は正直「こんなものだ」と思っていた妻を
亡くしてからその喪失感におそわれた男磯辺
妻が死に際に、自分はきっと生まれ変わるから
見つけてと言った言葉に輪廻転生を求めてインド行きを決意
物語はオムニバスのようにインドへのツアー旅行客の
それぞれの「過去」に触れてゆく
女としての魅力を持ちつつも、心は冷め、自分を
「汚したい」と男と関係を持ったりする美津子
彼女は学生時代誘惑したさえない男で
キリスト教の信仰を持つ大津に、神の無意味を説くが
ただの美津子の気まぐれで捨てられた大津は
それを気に神父を目指し日本を出ていた・・・
他にも戦時中飢えに苦しみ、同胞を食べた友の苦しみと
自分自身の戦争のトラウマをかかえる男
動物に癒され彼らが話し掛けてくれたことで
過去と病気の時の辛さを思う男
イマドキの新婚バカップル、とツアー客は様々だ
************
美津子が神を信じる大津を「からかい半分で」誘惑
する時「信じてもいない神に話し掛けるのだ
「神さま、あの人をあなたから奪ってみましょうか」
さえない、つまらない男である大津
それが人のもの(神であっても)であるならば
奪う喜びがある。異性に対する絶対的な自信を
私は半分腹立たしく思い、半分は感嘆する・・・
愛とは何か。最近この「愛」という西欧の和訳が
どうにも嫌いでならない。この言葉の「愛」とは
征服欲の愛という気がする。束縛、また略奪など
恋多き女は美しい、という。けれどそれは何か
手に入らないものを求めてさまよっているように見える
何人の男に愛をささやかれても
何人の男を手に入れても
ただひとつ、さまよいつづける魂は
誰の姿も見えてはいない。世界はひとりぼっちの空間だ
世界中の人から愛され、自分は人を愛さない
世界中の人から嫌われて、自分は多くの人を愛する
どちらが良いのか
嫌われても愛したいとみんな言うだろう
私もそう思う
でも本当は?
人は欲張りで淋しい生き物だ
心の中で人に祈るより
手を握ってくれる体温が、きっと欲しい・・・
(それで、また、満たされない思いを抱える
と言うことになっても人は求めつづけるのだ)
百のささやきよりも1回の抱擁が欲しいわ
と年頃の娘が言う
古い映画の台詞は真実かもしれない
*****************
妻に死に別れた磯辺がガンジスで叫ぶ
「どこにいったのだ」と・・・
だが、一人ぽっちになった今、磯辺は生活と人生とが 根本的に違うことがやっとわかってきた。そして自分には 生活のために交わった他人は多かったが、人生のなかで 本当にふれあった人間はたった二人、母親と妻しかいなかった ことを認めざるをえなかった 「お前」 と彼はふたたび河に呼びかけた。 「どこに行った」 |
美津子と対照的な(悲しいが)かけがえのない存在がいた磯辺
妻は磯辺に自分はきっと生まれ変わるから探してと言ったが
私は、こう言いたい
「早く忘れて他の人を愛して」と・・・
自分の大切な人の苦しむ姿は見たくない
楽しく生きていて欲しいから。
遠藤氏はたびたび神とは「働き」と言っていた
それを神と言うのなら、何と理不尽で、不合理何だろう!
運命とは何か・・・神の働き?
それは子どもの気まぐれな遊びにも似て
時に残酷で人を苦しめるものだ
それを受け入れよ、というのなら
やはり私は闘おう。運命でも、神でも・・・・
亡国のイージス 福井晴敏 講談社
海上自衛隊護衛艦「いそかぜ」艦長宮津はある時
息子を交通事故で亡くした。悲しみにくれるその時
ひとりの男が訪ねて来る。男は息子の死の真相を語る
防大で学びゆくゆくは父の後を継いで自衛官になる
というはずだった息子は、米軍の開発した恐ろしい兵器と
その盗難を隠蔽しようとした日本政府の秘密を知り
暗殺されたと、男は語った
人生をかけて務めてきた自衛官という職務だったが
宮津は息子を殺した国家への復讐を誓う
けれど、そこには日本へのテロ攻撃をもくろむテロリストの
陰謀があった。という海自を舞台にしたサスペンスである
(マンガの沈黙の戦艦も読んだし、自衛隊モノが好き 笑)
息子を殺されたら例え国家でも許しはしない・・・
私には宮津の気持ちは良くわかる
いつも軍隊モノ、戦争モノを読むと目の前に光景が広がる
この本も私を最新のイージス艦の艦内にワープさせる
上を、横を見る私にせまる数々の配管、自分が見ることのない
聖域、そんな気がする
狭い艦の中に様々な人生が見える
陸に居場所の無い者たちもいる
厳しい艦内に、仲間と自分の居場所を見つけ出す・・・
さて。国家というもの、国防というものを再考する
文中出てくる海上警備行動というのは、本当に自衛艦の足かせだ
つまり相手に攻撃をしかけられない限り先制攻撃はできない
という意味だ。相手が放った一発が致命的ならば
反撃などはできない(以前の北らしき船からの攻撃でボロボロに
穴の開いた船は衝撃的だった)海に囲まれた日本でいつまでも
こんな「警備」をしているなんて、と思うがまあ、丸腰に
近い軍備で海外に派遣する国だから、平気なんだろう
もしも最初の艦がやられたら堂々と撃沈できる理由ができる
必ず最初の「犠牲」が必要だという「海上警備行動」
でも解釈範囲が広がったとも聞いたが?(真偽は確かめていない)
ストーカー被害の時のように被害者が殺されたりして
初めて動けるという法律上の欠陥だ
文中過酷なシーンだと思ったのは同じ自衛艦同士が砲撃するシーンだ
命令で撃沈しなければならない、相手が敵ならばそれが使命だ
だが・・・倒すべき相手が仲間であったなら・・・
もうひとつ。特殊な訓練を受けたアヤシイ若者、如月行
悲惨な家庭環境に育ち、チンピラのような父を殺害して
この集団に入れられた如月は、感情を捨てていた
過酷な訓練キャンプで犬を一匹選べといわれる
苦しい訓練を慰めてくれる友である犬
訓練最後のテストで、その犬を殺して食えと指示が出る
できないと怒る者は最初の脱落者で、最初の合格者は
如月だった・・・・・・
これもまた残酷なテストである
命令で蛇でもトカゲでも気分は良くないが
義務ならば食べてもいい、が、愛犬は・・・
以前飢えたら私は愛犬を食べるだろうと書いた
それに偽りは無いが、それとまた違うこの「愛犬」食・・・
人の命令で食べられはしない
イージスの語源はギリシア神話であるという
どんな攻撃も跳ね返す楯・・・
この本はゴツイ話のはずが全編を貫く美しさがある
**********
昨日書いたイージス艦の由来であるギリシア神話の楯だが
どうやらゼウスの使ったモノだそうである
メデューサの首を埋めこんだ楯もそう呼ぶと書いている文献もあった
それにしても自衛隊の戦艦や戦闘機のネーミングはどう付けている?
日本の軍隊だからなるべく和名をつけてほしいものだ
昔書いたがレースカーの名前で「童夢」というのがあったが
童わらべの見る夢・・・いい名だと思う
そういう和名は好きだ
子盗り 海月ルイ 文藝春秋
以前子どもが欲しくて産院から赤ん坊を盗み、自分の子として
育てていた夫婦が1週間くらいして逮捕されたと言う事件が
あった。それは子どもが欲しいという切ない願いと
周囲の「子どもはまだか」の重圧に苦しみ他人の子を誘拐した
悲しい犯罪であった
この小説はそんな事件を思い出させる序章から始まる
愛し合い結婚したはずの夫婦なのに子どもができない
そのことが彼らを追い詰めてゆく
(私に言われれば)バカバカしい日本の田舎の家督相続制が
「嫁して三年子なしは去れ」という嫁への重圧を生む
結婚は子作り制度ではない。なのに子どもができない
と言う事が犯罪に走らせるくらい辛いとは、周囲(社会)の
無理解がそうさせるのかもしれない
都会はまだいい。仕事など「自分」を優先する女性が増え
子どもを持たない選択も許される時代になった
でも、田舎ではまだまだ嫁は子どもを産む道具のまま
例えば(小説だけでなく実際にいるが)性交渉と言うのは
本来愛情表現のひとつであるべきだ。が、妊娠を第1目的に
考えると医者の指示どおりの日に性交渉を持つ
小説中も出てきたが「今日は排卵日だから」と
するセックスなんてもうただの「義務」になってしまう
本人たちが子どもが好きで欲しいというならまだしも
現実は周囲の子どもを望む声に押されて不妊治療など
する夫婦も多そうだから、何て辛いんだろうと思う
一方で小説中太った女が出てくる。しかも醜い(と表現されて
いる)性格も悪い(これは私の補足 笑)そして望まない妊娠
(目をつけた男の酒に薬物を入れて、の上での性行為である
男が強姦されたという?苦笑)妊娠に気がつくのが遅れ
ヤミ出産となる。そうその子どもが子どもを望む夫婦の手に渡る
子どものいない夫婦と太った女を結んだのは
離婚し子どもを資産家のダンナ側に取られた女(看護婦。小説中
看護師という言葉にはなっていない)だった
子どもと離された切なさが子どもを要らない人からいる人へ
と言う行為に走らせたんだろう・・・それもまた切ない事だ
昔産婦人科の医師が(九州?)事情があって子どもを産んでも
育てられない女性の子を、子どもが欲しい夫婦に斡旋して
社会問題となった(養子でなく実子としたところが大問題
法律上の問題と、万が一知らないで結婚したら血縁があった
などと言うリスクもある でもそれを言ったらAIDも
そんな問題があると思う。精子の提供者が誰かというのを
絶対わからないようにしてあるというし、精子の提供者は
自分の結婚相手や自分の子どもの相手が
が兄妹だったという事も?ゼロとはいえない)
だが欲しいところにはできないで、要らないところに子どもが
できるという事実もまた、何とかしたいことでもある
養子をもらう条件も家庭環境や経済によって施設からはもらえない
と言う人もいる。もっと欲しい人に自由に子どもを、と
思うが変な人に子どもが言って虐待されたりしてもいけない
養子が不幸になったら養子に出した人、受けた人両方が罪だ
実子は「親」が全てを請け負うんだけど、養子は外部も責を負う
うーんムズカシイ
という切ない小説である。結婚して子どもがいない人に
「お子さんまだ?」というのは禁句である
まだ、というのは結婚したら当然妊娠するんだろう?という
言葉だから。まあ、挨拶代わりで言う人は悪気もないんだろう
世間の干渉の言葉*****
子ども時代は「お友達できた?」「お勉強できる?」
思春期「どこの学校進むの?」
お年頃「ボーイフレンドできた?」ちなみに海外では
ボーイフレンドとは肉体的な関係もある男友達のことらしい(笑)
清い異性友達はジャストフレンド・・・今は何て言うのか?
適齢期「ご縁談は?」
結婚後「赤ちゃんはまだ?」
ひとり目出産後「二人目は?」これいまだに言われる(!)40歳だぞ
きっと数年したら「お孫さんは?」とかね、永遠にくりかえすのか?
私のジンセイである。ほっといてくれ!!
受精 帚木蓬生 角川文庫
最愛の恋人を事故で失った女に見知らぬ僧侶が言う
「彼の子どもを産みたくはないか」と・・・
女は不思議な事に亡くなったはずの恋人に再会し
愛し合った。女は僧侶の言うがままに恋人の子どもを
妊娠・出産するためにブラジルの大病院へと旅立って行く
始めはオカルトかホラーかな?と思ったが
読み進むうちに科学の匂い、策略の匂い、が・・・
結果はともあれ、興味深いテーマであった
思い出すのはOL時代、上司(といってもまだ20代)が
親友とその恋人を招待した。海でデートをしてもらおうと計画
会社にも来てラブラブのふたり、という感じであった
数日後、ほんとうに驚いたのだが彼のほうがサーフィンでか
海で死んでしまったのだ。恋人(ほとんど婚約者といっていい)は
残されて私たちに電話をかけてきたが、こちらも
お気の毒で何を言っていいかもわからなかった
その後彼女がどうしているのかなどは、わからない
(上司も転勤になったし)健康だった恋人の突然の死・・・
この「受精」を見てすぐにこれを思い出した
さて。若い女性が恋人を亡くしたとする。本当に彼の子どもを
作れるのならば彼女らは作るだろうか?
女性はその感情的だといわれる性格に反して、計算高いものだ
父親のいない子どもを産み育てる苦労を選択するとは思えない。
(もちろん妊娠中に彼が亡くなったなら別だ。ほとんどは
立派に産み育てるだろう)自分が健康で若い、ということは
これからより良い遺伝子(異性)を獲得できるかもしれないのだ
だが一方で「この人がいなければ死んでもいい」と思う熱意もまた
若い日の恋愛とも言えるから勢いで「亡き彼」の子どもを
作ってしまうというのも「あり」かもしれない
自分だったらどうするだろう?
若い頃はダンナとケンカばかりしていたので(笑)想像が難しいが
結婚後ダンナがちょっと病気で入院した折はまだ小さい息子を
寝かした後(息子が起きている時に泣くわけにはいかない)
しみじみ泣いていた。万一亡くなったらと想像すると
(病名がガンだったので。軽かったけれどインパクトが強い)
確かに死にたい気分だった。ダンナは淋しがりや(自分でいう 笑)
である。ひとりで逝かせるのは、こちらが辛い、と・・・
しかし子どもがいた。この世に残って戦いながら(!)
子どもを育てる決意はあった。でも夜になると辛さはやってくる
ダンナのパジャマの匂いをかいで(ヘンタイじゃありません 笑
べつにふだんも、匂いを嗅いでいるわけではない 汗)
早く帰ってきてと祈るばかり。ちなみに「匂い」というのは
かなり感情とリンクしている。匂いで思い出す事もあれば
匂いで知らぬ間に個人を嗅ぎ分けている気がする
例えば子どもの汗の匂い。息子のモノは「息子の匂い」なのに
よその子の匂いは「くさいだけ」笑
そういう数年前の体験を思うとやはり私も亡くなった恋人の子
というキーワードに惹かれてしまうんだろうか?
でも子どもが亡くなった場合は?すぐ妊娠する夫婦が
多いというのは本当だろうか。となると同じ遺伝子の同じ存在を
求めているということだろうか?そうなると「子どもはまた作れるが
夫婦は同じ人がいない」という「アメリカ流どっちが大切」論(笑)
まあ、本当は夫婦でも子どもでも同じ人はいないんだけどね
見め形が同じ人を求めるという事は安心したいんだろう
亡くなったのが子どもなら次の子、恋人なら似ている人・・・と
さーて。女性の皆さん亡き恋人の子どもが欲しいですか?
************
余談:この話は亡き人の子どもを産むという事以外に
亡き人に「再会」して語り合い愛し合えるというオマケがある
(その理由についてはヒミツ)さて。子どもとはいかないまでも
恋人が亡くなったらその人とまた「会いたい」と思うだろう
ただし。時が経った時その気持ちが持続しているかどうかは
わからないだろうが・・・
リトルターン ブルック・ニューマン
五木寛之:訳 集英社
小アジサシという一生の大半を空で過ごすという鳥がいる
彼はある日、体に異常がないのに突然飛べなくなってしまう
空が飛べないアジサシなんて意味がない、そう落胆する彼に
空では見られない世界が少しづつ開けてゆく
ぼくの仲間はじっとしているぼくを、好奇心たっぷりに 見つめ(略)どうして飛ばないのかと質問した。 ぼくはまだ自分で十分に納得できないでいる事実を ありのまま伝えるかわりに、手のこんだ言いわけを でっちあげた(略)時がたつにつれてぼくの言いわけは 独創的になっていった |
ここの文章に苦笑してしまった。人は自分の弱さをありのまま
語る事に臆病である。素直に自分は飛べなくなったと
友に語るのは案外勇気が要るのだ
私にしてもグチの数々を周囲にもらすのは、何となく出来ない
だからこんなHPを作って秘密の暴露(笑)をしているのだけれど
惑星のどこにとどまっていようとも きっと鳥は鳥でありうるはずだ それでも星は星なのだから とぼくは自分を納得させた |
自分はどうなっても、どこであっても自分のはずである
でも色々に流されて自分の姿は時に見えなくなる
「こんなはずではない」「こんな自分はウソだ」
そうつっぱる時もある。でも本当は、そんな時も自分でしかない
水は河にあっても海に着いても水は水
飲み水になっても(笑)そんな風に形を変えても「自分」だ
それでも、ぼくは考えた。もし求める気持ちを自分の心から 追い出してしまったら、その時は自分が求めるものを 手にするのは、とんでもなく困難になるだろうと |
ひっそり咲く花と友達になりたくなったが、お互いに沈黙しているし
こういう奇妙な友情は成り立たない、そう思った時アジサシが
思った事である。夢というものはあきらめたら、ただの夢
あきらめなかったら。手に入る事もある
そんな風に「やってみよう」と思うようないい言葉だ
この話のせいではないが今日は会社で一番苦手な人と話をした
自分が皆に溶けこんでいないという事を正直に言ってみた
すると、その人もそう思っていたらしい
もっとこちらへ来ればいい、そういってくれた
そう言われたからといってすぐに出来ないとは思う
何しろこの1年近くをなじむのと反対に進んでしまった私だ
でももう少しがんばってみよう、そう思った
アジサシに負けないように・・・
古くは「かもめのジョナサン」最近では「孤独なハヤブサの物語」
と鳥をモチーフにしたこころの物語が多い気がする
鳥という生き物は人の向上心をあおる
それは大空を舞う生き物のだからだろうか
飛翔・・・いつの時代も人は空を飛ぶ事を焦がれてやまない
肉体は飛べずとも心は、空を駆けていたいのだ
(飛行機じゃダメだ 笑)
沈黙 遠藤周作 新潮文庫
本棚にあったはずが消えていた。ハードケースに入った「沈黙」
さすが「神」の本(笑)
いつ、どうしたんだろう?仕方が無いから古書で文庫版を買った
ご存知「神の沈黙」をテーマにした氏の代表作であるが昔
国語の教科書にも使われたので読まずとも内容はよく知られている
当時この作品を教科書に載せたことを悔しく思っていた
作品を抜粋しまるで切り張りのようにするなんて・・・と
本とは丸ごと読んでこそ、だと。単純に怒った
「転んだ転んだ」とはやされた司祭の気持ちが、こんな一部分で
わかってたまるかい!と・・・だが今思うと
穴吊り(耳の後ろに穴をあけて少しづつ血液が流れ出す、拷問)
などショッキングな表現を載せたり
神というテーマを教科書で扱った事は評価できると思った
さて(有名な本だから後半部分も書く)日本で布教活動をしていた
ポルトガルの宣教師が日本政府の方針転換で自分たちも日本人の
信者も弾圧されるようになっていた。中でも信仰厚い司祭
フェレイラの棄教はショッキングであり事実を求めて教え子が
日本への密航をする。たどりついた蛮国日本では想像を絶する
弾圧が行われていた・・・
司祭は固い決意で上陸する。どんなに責められようと
十字架にかけられたあの方(キリスト)と同じ苦悩に耐え殉教しよう
しかし、巧妙な政府は「転んだ」はずの貧しいだけの百姓に
拷問「穴吊り」をする。司祭にせまる「あなたが棄教しないと
彼らが苦しみ死んでゆく」と・・・
自分の信仰を貫くか、慈悲を持って民のために棄教するか
司祭は苦悩する。
この時司祭に神への不審が芽生える「神の沈黙」だ
神はなぜこのようなむごい事に黙って見ておられるのか
なぜ何も語って下さらないか・・・
この問いは日本に上陸して極貧の百姓の生活を見た時にも沸いた
私自身問いたい「神の沈黙」を。そう思ってこの本とつきあって
25年経ってしまったが答えは見つからない
思えば信仰とは、生きる手段でもある。極貧の生活で何の楽しみも
無かった、その時何を希望とするか?答えは「来世」「天国」での
永遠の快楽の約束であろう。貧しい時は生きる目的、意味など
考えはしない。食べるため、生きるために、人生を使い果たす
でも人は「快楽」無くては生きられない。そこに信仰とは
希望(夢)と言う快楽を与えてくれる
極貧の百姓(今は差別用語かもしれないが、当時を表す言葉は
そのまま使用)は生きるために神を求めただけで、本当は
その神が何であっても良かったのだ。それなのに神の国
パライソに行ける希望故に殉教して行く
ハタから見るとむごい殺され方で惨めだ。何のための死か
神がいなかったら?ただの犬死だ、司祭の迷いは私の問いだ
司祭は百姓のために「転ぶ」本国の教会を裏切る。だがそれは
教会と言う組織を裏切っただけで、神へのそれではない
司祭はそれを胸に・・・話は終わる
人が神に祈る時、死にそうな家族がいる時、子どもの受験
など様々だ。現世利益とも言うそれらは全てエゴ・・・
自分の生のために祈る・・・(人のためも、またエゴとする)
そうでない森羅万象への畏怖や疑問そういうものを信仰と
言った人がいた。でも、そうではない、きっと・・・
「祈る」そのものは同じなのだろうから・・・
「沈黙」に出てくるキーパーソンでキチジローと言う百姓がいる
彼は「転んだ」切支丹でもあり司祭らを奉行に「売った」裏切り者だ
だが彼は司祭に許しを請い続ける。彼の言葉は私の胸を刺す
俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教さえできぬ。 どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生まれあわせたか |
心の弱さ、汚さを人は選ぶわけではないのなら、なぜ神は人を様々に
強き弱き、美醜に、とつくられたのか?世の中に悲しみがある限り
問いかけは続いてゆく「あなたはなぜ沈黙するのだ」と・・・
信仰とは何かは私にはわからない。たぶんこれからも。だが
神を求め真摯に祈るあなたも、「沈黙」にでてくる極貧の百姓も
同じ祈りの人である・・・
家族狩り 天童荒太 新潮社
冒頭の1本の悩み相談の電話のやり取りからこの物語は始まる
暴言を吐き最後に電話の主はこう言い捨てる
「家の連中、全員ぶっ殺してやる」
続く本編は物語はある殺人の進行現場だ
父親、母親、らしき人物がのこぎりで切られてゆく凄惨な光景
声の主は言う「愛していてるか」うめくように頷く肉体に
「うそつき・・・だからダメなんだ」と言い放ちのこぎりを・・・
家庭内暴力の中でも子どもが荒れて親に暴行をする場合は
子どもの長年耐えてきたものが表に出てきたと言えるかもしれない
家庭とは何だろう。親子とは何だろう。家庭の秘密はまたの表現を
恥と言う。例えば外で見知らぬ暴漢に殴られたら迷わず警察に
頼むだろう。しかし家で家族がそうしたら通報を迷うかもしれない
家庭とは心に似ている。表面は差し障りなく穏やかに取り繕いたい
だが中はその人だけしかわからない傷や汚さなどが渦巻いている
そんな風に家庭とは他人に見せたくない聖域なのだ
物語中捜査官の妻がしばしば登場する。彼女は昔かたぎの夫から
貞淑な妻像を押しつけられ本人もそう教わった世代だから
夫の責めを受けつづける(家庭に非があると全て妻のせいと
夫に責められる)息子は事故死し娘は父を憎み絶縁状態
その挙句に妻は精神を病んだ。入院生活を経て家庭へ戻るが
仕事にウェイトを置く夫との生活にまた少しづつ心を病んでいく
奇しくも先日ダンナと見たビデオで熱血警察官の妻が、仕事優先で
家庭を顧みない夫をなじり家庭は崩壊寸前というのを見た
世の妻は多分に夫の不在で不安定になるのだろうか?
理由もなく、または何となくアヤシイなどで不在ならわかるが
仕事で遅いという事がなぜ不安につながるか、私はわからない
鈍感だと言われればそれまでだが。若い頃恋人が転勤して
月1くらいしか会えなくなった。若い年齢だったが彼は
浮気の気配もない様子。でも仕事は忙しいらしい(バブルの
全盛期)半年して彼らは別れた。彼女が不安定になり、男を
作ったのである。たまに逆のこともあるようだが
女性はひんぱんにデートする事で安定するらしい
それは巣作りの本能だろうか?仕事と私とどっちが大事なの?
とは良く聞く台詞だがそれは比較外の質問である
妻の病気のために退職する議員や、妻の出産・育児のために
産休を取る大臣など世の中は家族と言うものの復権を重要視する
それは良い事ではあるが、家庭よりも仕事に重きを置いて
仕事に打ち込む人がいてその恩恵を社会が受けているならば
仕事人間をもっと暖かい目で見てやりたい。愛(安易な言葉?)に
下手な人もいる。家族という演技が下手な人もいる
そんな人が仕事を第一として、それを内外から非難されたら
彼らには逃げ場はない・・・(むろん家庭を大事にしたい人には
休暇などもっと認めてやるべき)
女性のみなさんあなたは彼に言いますか?
仕事と私どっちが大事?と
男性のみなさんはそれにどう答えますか?
てのひらの闇 藤原伊織 文藝春秋
大手飲料メーカーの会長が自殺した
それはある1本のCM用のデモテープを会長自らが作り
その不備を部下から指摘された直後だった
部下の男は昔会長に目をかけられ入社したが
当時小さなCM製作会社の社員だった
生CMでその出演女優がスポンサー名をライバル会社と間違って
言ってしまうという事件が起こり男は業界から去るが
彼を見込んで入社させたのが、自殺した会長だった
会長の死の後例のCMのビデオテープが消えた・・・
男は会長の自殺の謎を追うことにした
一見ハードボイルドかなと思わせる。ウラ社会も出るし
何よりも主人公の男は過去が壮絶な死を遂げたあるヤクザの組長の
息子だったという事もあるし。しかし妙な言い方をするが
私にはとてもメルヘンなさわやかな読み口だった
男は良いなと思う。暴力や破壊、決して美しいとは言えない世界に
美学を見出す。余談だがヤクザ社会を描いたものを読むと
彼らの仕事が「汚い」仕事だと再認するが、それは
人の一番弱い所、核を突くからだと思う。特に彼らの仕事で
恐喝・・・人の隠しておきたいところを表にさらすとか
大事にしているものを傷つけるとか、そう言う行為である
人それぞれではあるが弱みも大事なものもある
誰でも悪に屈するのはそう言うわけだ
主人公のアブナイ性格のサラリーマンは大胆だ
ヤクザにも屈しない。それはどこから来るのか?答えは
彼が露見して困る秘密も無く守るべき人もいなかったからだ
人の理性をつないでいるのはそれらの「弱み」なのだ
物語中二人の女性が出てくる。ひとりは主人公の有能な部下
ひとりはドカティで縦横無尽に駆けるワイルドな女性だ
ふたりとも強く魅力的である。けっして男に媚びなどうらない
こう言うハードボイルド系ではセクシーさを強調した女がツキモノ
だからウレシイ。ついでに・・・濡れ場もほとんど無いのだ
ああ、そうかその辺にもさわやかさの秘密があるのかも
蓬莱(ほうらい)今野敏 講談社
蓬莱というコンピューターゲームがあった
それは架空の歴史作りシュミレーションだったのだが
実は太古の日本の国作りが隠されていた
ある日そのソフトがパソコンでなく新たに家庭用ファミコンで
発売される事になった。すると開発した小さな会社のスタッフは
何者かに狙われる事になる。開発の中心だった社員は事故死・・・
たかがゲームソフトに何が秘められているのか・・・
私はゲームをあまりやらない(ムスコはゲーマー予備軍 笑)
だがロールプレイングやシュミレーションなどのゲームに
はまる人が色々な資料を読んでいたりゲームのためにわざわざ
歴史書や偉人伝に詳しいワケが、これでわかった
なるほど。ゲームとははまったら面白そうである
(はまったらヤバイからやらない事にする。笑。私の事だから
家事すっぽかしてキカイに張りつくかも知れない)
国や町を作るゲームや、戦争シュミレーションなどは特異だ
自分が一国の独裁者であるような奇妙な満足感や支配欲を
得られるのだろう。誰でも味わえる絶対感・・・
物語に出てくる恐らく優秀であろうプログラマーという人々を
想像するとアナログ世代の私たちが持ち得ない世界観を
持っている気がする。人は自分の経験や思想から物事を判断する
私なら何となく今までやってよかった事はやり、失敗は回避する
そうした大雑把な行動はわかりやすい反面理屈では信じがたい
感情などの「余計な」判断でつまづく
しかし、全て現実がシュミレーションだと考えられるなら?
それは人の知恵のひとつの「進化」の形かもしれない
(このいい方は賛否があろうが、正直な気持ちだ)
例えば日本語しかわからない私はバイリンガル、トライリンガル
などの他国語を駆使する人の思考回路はできていない
海外生活が長い人は思考は英語で考えると言う話はよく聞く
母国語を頭の中でつたない翻訳をしやっと英文の意味を判断する
単線回路の私にはわからない感覚だ
きっとプログラムというものを学習・消化している人々もまた
同じように未知のネットワークが頭でつながっているのだ
物語の中心に出てくる日本史上のキーワード「徐福」
彼は秦の始皇帝から派遣され不老不死の薬を探しに航海に出て
日本に着いたとされている伝説(?)の人物で
未開に近い日本に農工や色々な技術を伝えたと言われている
一説では徐福が始皇帝を騙し兵隊や女性をもらいうけ
始皇帝の支配外の地に向かい野望を果たしたともいわれている
(詳しくないのでお調べ下さい)
物語で徐福をプログラマーに例えている部分があるが
なるほど政治や経済を動かす事はプログラムといえるかも。
小さい頃流行ったスゴロク式の人生ゲームを思い出す(古い?)
あれはサイコロの目で富を得たり失ったりしたけれど
イマドキのゲームはサイコロでなく自分の裁量にウェイトが置かれ
「運命よりも実力」のような感覚だろうか・・・
素人の私にゲーマーの感覚を味あわせてくれた「蓬莱」であった
鬼子 新堂冬樹 幻冬社
小説には3パターンの終わり方がある
ハッピーエンド、不幸なエンド、結末のはっきりしないもの
新堂氏の作品は以前読んだカリスマもそうであるが
かなりアンハッピーなのである。そして両作品に共通しているのは
「母親」である。だからか、私は彼の作品をつい読んでしまうのだ
売れない小説家がいた。彼には自分の作品のファンだといって
いつも支えてくれる妻と可愛い息子、娘がいてマイホームもある
絵に描いたような生活、のはずであった
それが壊れたのはある日突然息子が家庭内暴力をふるい
不良少年となり荒れ始めてからである。しかも妻まで冷たくなる。
父は苦悩する。なぜ?最近まで良い子だったのに、自分も息子を
愛していたのに、なぜ?父はカウンセリングに通いながら
出口を探して迷っていた。暴言を吐く息子に逆らえない父
協力すべき妻まで変貌し。読みながらこれこそ生き地獄だと思った
不幸はまだ襲う。あろう事か息子の友達が娘をレイプしたのだ
父はなす術もなく娘を見て、息子は・・・友人を扇動していた!
こんな事までするやつはもはや息子ではない、鬼だ・・・
父は息子を許せなくなる・・・そして・・・(先は秘密)
息子の荒れ始めたのは祖母(作家の母親)の死後だった
この子どもや孫思いの母親が今回のキーワードでもあった
新堂氏の描く母親とは美しく聡明でやさしい・・・
(それが何かの原因で失われる、と言うのが氏の設定
もしや相当なマザコンかな 笑 すみませんファンです。お許しを)
やっぱり親とは、母とは子ども、特に男の子にとっては重要な
モノなのだと感じる。私も息子がいるのでああ、むずかしいなと
思う。息子は無条件にかわいい。かわいいが故に冷静さが欠ける
先日も帰宅して息子が泣き出した。驚いて「どうした?いじめられた?」
とたずねながら心臓はバクバク波打った。かわいい息子をだれが
いじめたのか!頭に血が上るというのはこう言う事か、と思った
息子の泣き顔が理性を吹き飛ばす(時に笑顔が同じ効果をもたらす)
以前ニュースでチンピラのような親が息子がいじめられたと
学校と相手の親の所に乗り込んで暴れたらしいが
その感情は親なら誰でも持っている。危険と言えば危険なものだ
人は簡単に理性を手放さない。自分にも危険だからだ
それでも感情が爆発する時がある。その引き金はいくつもあるが
「子ども」と言うキーワードはその引き金のひとつだ
この小説を子どものいる立場の人はわが身に潜む狂気を
親の保護下の人は親の中の隠された闇を
想像しながら読むと倍コワイかもしれない・・・
(おまけ:息子の涙の原因
実はいじめなどではなく漢字テストが、100点満点中88点
合格ライン90点。息子にしては連日がんばっていたので
悔しかったのである。ちなみに敗因は私にもあった
家での練習で「にさんかたんそ」を息子は「二酸化灰素」と
書いていたが私は「酸」の字を気にしていたので「灰」の字を
見ていなかった。息子は「二酸化灰素」で覚えてしまったのである
他にも「きじゅん」の答えを私は基準と教えたら、規則の意味の
「規準」であった・・・・・沈黙 (-_-;)
こういうミスがいくつかある。パソコン打ちながら片手間で
息子の解答を見ていた。真剣に見なかった。夜のひとときは
息子よりキーボードがコイビトなのである 笑)
永遠の仔 天童荒太 幻冬社
人が抱えるトラウマを思うとき、もしかしたら人は死ぬまで
傷から離れられないのかと思うときがあるが、この本はその思いが
強くなるような「癒えない傷」の物語である
12歳の少女と二人の少年はそれぞれに不幸な家庭で育ち
心に傷を負い小児精神病棟に入院した。救いを求めた3人は
山に登ってある計画を実行する・・・しかしそれは永遠の「傷」の
始まりだった。そうある人物を殺害したのである
大人になって3人は再会したが、表面上では立派に社会生活を
営んでいるように見えても心は昔同様傷が癒えていない
一生治らない傷。虐待する母を必死にかばい慕う子ども・・・
今の時代人は言う。自分の人生だから自由に生きたい、と。
ああ自由に生きればいい、だがそのために不幸になる人は必ずいて
それは仕方がないことだけれど、その不幸になる人は子どもであっては
ならないのだ、心からそう思う。大人なら逃げられる、新しく生きられる
だが、子どもはただ大人についてゆくしかない。親の殴る一発や
親に無視されるひとときは、世界中の他人からの非難よりも辛い
特に親からの性的虐待はあってはならない
子どもを置いて遊んでいる母親や、そうでない普通の人でも
「子どものために私の人生は無いの?自由は無いの?」という言葉を聞く
無い!それを選んだのはあなただろう!少なくても大人には選択できたはず
産むか産まないか。だが子どもには選択肢は無い。産まれるしかない。
親を選べるわけでもない。人の人生を無理やり決めるのだ、親というのは。
だから親に自由など無くてもいい。私はそう思う・・・
子どもを愛して幸せになろう、などときれい事は言わない
それができないから苦しむのだろうから。だが、子どもからも言わせてくれ
「私に自由は無いの?」「親に振り回されるの?」と・・・
私は、中絶するのと産んだ後虐待するのとどちらが残酷なんだろうと思う
ところでこの本で傷ついた3人の中に優希という女性がいるが
彼女は12歳の「秘密」の時も、大人になって再会した後も仲間の
2人の男性に守られる。これは何となくうらやましい気がした
私は中学生あたりから男子に心を開くということはできなかった
親友はいつも女性ばかり。男性にはカタクなってしまった。だからか
恋愛などでもなく、心の友(ドラえもんのジャイアンの台詞みたい 笑)が
異性で自分を守るというシチュエーションがうらやましい
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ちょうど今ニュースで19歳の少年が母親を刺して(母子家庭)
「何故刺してしまったか考えているところだ」と話しているという
子が親に殺意を持つ事・・・とても悲しい・・・
(永遠の仔 つづき)
本の中にこんな言葉があった。「サバイヴァー」生還者である
トラウマを負った子どもたちにこの言葉が使われるという
生還とは遭難などで過酷な状況から生き延びる事であるが
人生そのものが過酷だった子どもたちには
まさに「サバイヴァー」という言葉はぴったりのように思える
過酷な状況とはジャングルで獣に襲われそうになることや
砂漠で水も無い事だけではない。心の飢餓感、焦燥感、孤独感
そういうものは強く感じるほどに、心の中は「過酷な状況」に
なるのだろう。子どもは貧乏で一日一食がやっとでも
親子で笑える時間があれば生きられる、が、きっと
贅を尽くした屋敷で多くの使用人に世話をされても
親から言葉もかけられないならば、心はドライアップ状態
その意味で多くの悩んでいる人にぜひ生還してもらいたい
今親に甘えることを許される人は、甘えて欲しいし
子どもから求められたなら、甘えさせてやって欲しい
出来ることは難しくない、そして、ある人たちには難しい
笑うこと、抱きしめること、ごめんね、ありがとう、を言えること
親だから、子どもだから・・・
最後の家族 村上龍 幻冬舎
その家族は崩壊しかけていた。リストラ寸前で家族からも孤立する父
引きこもりを始め時折暴力に走る息子、それをひとりでカウンセラーの
元に走る母、家族には言わないが兄の引きこもりを気にしたり
自分の未来を模索している娘・・・の4人家族である
同じ時間、出来事を4人それぞれの視点で描いた作品で
同じモノを見聞きしても人は捉え方や思ったことが違う事を再認した
人はみな傷を抱えて生きている。それをうまく表に出せるかどうかで
生き方が辛いか何とかなっていくか、違うのだ
引きこもりの気持ちは今の私にはわかる気がした
以前は興味本意だったかもしれない。強い自分の牙城があった
今は違う。人間関係で挫折感・孤立感を味わって
会社に行くのが辛い、自分の家から出たくない、自分の好きな人としか
会いたくない、というような思いがある。それは外に出ることで
自分を否定されると思いこんで引いてしまっているからだ
(それでも毎日行く事にはやはり意味があるし、なにより働かないと
食えないという現実もある。みんなに合わせて作り笑いをする
大人のイヤな面だと若い私ならいうだろうが、その屈辱にも
大人は耐えねばならない)
本の中で驚いた個所があった。引きこもりの息子が、隣人で夫の暴力を
受ける妻を救おうと公的機関をなど色々な事を調べ奔走するのだが
他人のために弁護士に相談に行く。しかしドメスティックバイオレンスは
大人なら本人からの要請が無いと団体(警察も)は動けない
あなたには出来ることは少ないといわれてしまう
こうして他人を救いたいというのは自分が救われたいからだ
と弁護士が言う。これに私は驚いた。なるほど他人を救うという
行為の中にはその「弱者」よりも自分が上に立つということである
特に男女間では救った異性がまた加害者になる事は多いという
思い出したのは故ダイアナ妃だ
世界中ボランティアに飛び回り飢え苦しむ子どもを抱きしめ
ひざに抱く姿は人々の賞賛の的だった、が家庭生活は崩壊していて
長年の愛人のいる夫との冷めた仲、姑(女王)との確執
マスコミに追いかけられるプレッシャーなど、精神バランスは
悪かったと思う。そんな飢餓感が彼女をボランティアへ駆り立てた
そんな気がする
この作品中リストラの不安にあえぐ父の部分を読んでいて
ちょうどこんなニュースが流れていた
運送会社の内部告発した社員を長期間仕事を与えず個室に
閉じ込めていたと言うニュースが。なんだかドラマのような。
でも何もさせてもらえないという状況は辛い
疲れて肉体がボロボロになるのはある意味自分が社内で存在価値が
あるという証明だが「何もさせてもらえない」というのは
「おまえはこの会社で価値が無い」という事なのだ
自分の無価値、これこそ辛い事だ
村上龍の本は何故か棚に増えてゆく。彼の作品は心をえぐる
この本は前向きでいいかもしれない。現実はもっと残酷だとしても
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