読書かんそうぶん 体験・人生記
君玲 継母に疎まれた娘 アデリン・イェン・マー 文春文庫
中国人で資産家の娘に生まれた著者は子供の頃母と死別、美貌の仏ハーフの継母にいじめを受け、兄弟たちに裏切られ、医師として成功した後も親の愛を感じたくて悩む姿は、親子の問題は貧乏人も金持ちも関係ないんだなあと思いました。時代は戦争が終わり、中国では共産党の台頭や悪夢の文化大革命と激動の時代。でも、著者のトラウマはそんな歴史的大事件ではなく、親に愛されなかった・・・それなのです
テレビで(たぶんフジ)視聴者の不幸な生い立ちを再現ドラマにしたのを観ましたが、父親が働かず犯罪にも手を染めて、小学校も中学校も貧しいので行かせてもらえなかったという方がいましたが、それでも自分に優しかった父親を恨んでいないそうです。逆に何人かの知人は、裕福な家庭環境にもかかわらず、親との関係で悩み、大人の今でも、悩んでいる人が多いです。お母さんを亡くした人で「死んでも悲しくなかった」という人がいる。子供って、小さい時には親と楽しく過ごす記憶をたくさんもらいたいんですね
ウチの息子の場合、楽しい記憶には自信があるけど、逆に厳しさが足りなかったです。愛情ある厳しさは大人になって「あの時厳しくしてもらって良かった」と身になる。でもウチは身になってないです(汗)ま・・・まずい。高校生、もう遅い?
2006/8/28
ベルナのしっぽ ★ 郡司ななえ (角川文庫)
盲導犬ベルナと著書の心の絆を感じられる一冊。中でも子供の保育園に盲導犬は入れないと言われた著者が盲導犬がいかに訓練されているのかを説くために話したエピソードは泣けました
ベルナはある時酔っ払いにタバコの火をお腹に押し付けられ火傷してしまうのですが、それに耐え、抵抗せず、かつ主人の誘導の仕事を全うするのです。痛かっただろうに・・・犬の利口さと忠誠心が逆にかわいそうでした
著者はベルナを亡くした後、夫も病で急逝。しかもその後来た2代目盲導犬ガーランドも白血病で3歳で亡くし、生きる気力を失いかけたとの事。度重なる不幸を、思うと言葉も出ませんが、それを乗り越えて歩着だす事に拍手を送りたいです(尚この作品は映画化されたようです)
ちなみに、うちの愛犬を下さった家もご主人を亡くされたのでした。でもそんな中「主人は生まれた犬を気にしていて可愛がってくれる所へもらって欲しいと言っていた」と四十九日の法要まもなくいただきました。犬だけでなく、気持ちもいただいたと思っています。家族として愛して暮らしていきます
2006/5/22
「五体不満足」乙武氏 文庫バージョンミーハーだから買ってしまった(笑)以前の原稿にプラスされて
いた文章は「五体不満足」出版のせいで有名になってしまい
マスコミに追いかけられたこと、人々の「善意の」目がつらかったこと
などだった。自分は清く正しい障害者ではない、と著書を読んで
乙武イコールいい人という図式で自分を見る視線を、負担に思ったと
自由と言うモノがない状態を気の毒に思った今日仕事が終わって聴覚障害の人が手話の教科書を開いた
みんな呆気にとられていたら、矢のように手話を繰り出した
そんなに多くは覚えられないとおばさん達は皆笑った耳が聞こえない事で仕事が遅くなっても遠慮なく怒られる
耳が聞こえなくても、ずるい時はずるい。性格や仕事は本当は関係ない
障害者をなぜかいい人だとか素晴らしいとか、そんな言葉を当てはめる
しかしそれはおかしい。障害があっても同じ仲間同じ友達
相性の良し悪しもある。健常者が十人十色のように・・・乙武氏が言いたかったのはそこじゃないだろうか?
彼は普通の人だと。美化しないで欲しいと(でもやっぱ頭はいいよね)
私も仕事中は耳の不自由な彼女に内心「切れ」つつ仕事が終わると
彼女の手話を楽しく思うのであった・・・
砂漠の女ディリー
ワリス・ディリー
草思社
おそらく女性は共感するだろうこの本は
むしろ男性に読んでもらいたいと思う・・・
12人生まれた子が5、6人しか成人しないアフリカ
(ソマリア)の社会。子どもを亡くす辛さと,生きてゆく現実の
厳しさ。その中で女の役割は家庭における全ての労働力と
生殖だ。女はその行為を快楽にしてはいけない。
それと、処女性の堅持のために,女として生まれると
FGMという女性器切除を行うのだが
細菌感染やその他で死亡したり体に欠陥が残ったりと
命がけの行為なのだ。この本の著者もその恐ろしい所から
海外へ逃げ,スーパーモデルとなった
性器切除と言うとユダヤの男子割礼を思うかもしれないが
今は病院でされるらしいし、アフリカのFGMは石のナイフで
麻酔も無く切り落とす・・・私は同じとは思わない
反対運動には深い問題がある。男の側もそうだが厄介なのは
女(母親)だ。嫁に出すのにきちんとFGMをさせたいのだ。
海外の反対運動にも「いい所に嫁に行けない」と反発。
まずこの女親の意識から変えなければならない・・・
中国でもむかし纏足(パソコンて便利。こんな字書けないわ)
と言う女性の足を乳児から木のワクにいれて育たないように
小さい足こそ良しとする悪習があった。
(革命によってこういう悪習も廃止されたのなら意義はあったね)
それでも女はたくましい。地球最期の人間は女に違いない!?
女性の魅力は強さだ。うん!
人生は廻る輪のように
エリザベス・キュブラー・ロス
角川書店
「死ぬ瞬間」のロス女史の最期の著書だ。
彼女の苦難の人生と人への献身が伝わってくる。
その中で私が納得できずにいるのが氏の神秘体験だ
妖精の写真,体外離脱体験、心霊,チャネリング・・・
彼女が神秘的なものに傾倒していった事が残念に思った
癒しと言う目的で苦しむ人に「神秘」を手ほどきしてもかまわない
(彼女自身も含めて)だが「事実」として「医学」としての地位を
神秘というものに与えるのは納得できない。
それらはまだ「こころ」の域を出ていない。
なぜ彼女がチャネリング等に傾倒していったかは
文中にもあったが「死」の研究をしていった事で、かえって
「死」の意味がわからなくなる,「死」とは何かと問いかける
そして苦難続きの彼女が受けたプレッシャー・・・
彼女が「神秘」に助けを求めてるのは必然だったかもしれない
それにしても,死に際してもなお「神」を探していた
カール・セーガン氏と(私の好きな科学者だ)
「神秘」を受け入れ,あとの人々にも神秘のメッセージを
残したロス女史。私の好きな偉人は道を分けて逝ってしまった
私が死を悟った時「神」にすがって,魂は時を翔け
宇宙の果てまで飛べると考えるようになるかもしれない。
それは死の恐怖を受け入れるのに必要かもしれないから。
でも、できるならセーガン氏のように
最期まで現実を受け入れる強さはほしいと思う。
************************************************
これはアップを迷いました。信じるもののある人には納得できない
文でしょう。私の事を「懐疑主義」と怒るかな・・・ごめんなさい。
でもイメージが悪いんですが懐疑の精神て好きですよ。
「人を疑う事」ではなくて「どうして?」「なぜ?」というのを
探求してゆくのが懐疑だと思うから。だから神秘体験を
私は絶対「うそ」なんていいません。まじめな人が多いし。
だけどどうしても「どうしてそうなるか」を考えたくなるのです。
私のとぼしい「りか」の知識を総動員して。
十七歳の遺書 神田理沙 サンリオ1972年秋自殺した高校生の日記を編集したもので、親御さんが
同じように青春期に悩みを抱える高校生に共鳴してもらえれば、と
出版を許可されたと言う本。(現在入手できるか不明)聡明で繊細な彼女の心で何があったかはわからない
「死にたい なぜだかわからないが」
「でも 負けたくない 苦しみに」
「強く 生きたい」
「お母さん お母さん」この言葉を最期に7日後彼女は死んだ・・・
私がこの本を手に取った時17歳。私の日記にはこう書いてある
「理沙の気持ちはわかる」と。今となっては何がわかったか
私にはわからない。時が人の感覚を遠くへ追いやってしまう
そんな気がする。残念でもある。いつ自分は大人になったのか・・最期の言葉「お母さん お母さん」母親になった今突き刺さる
(昔 ぼくは12歳 岡まさし と言う本もあった
12歳で自殺。ビートルズは悲しい,ストーンズはむなしい
なんて書いてあったと思う。死ななければならない理由
と言うのがいじめ苦などの今の時代と違って、感覚や洞察を
突き詰めた結果死を選択したという時代だった。今は?)2001/2/14
なぜ,人を殺してはいけないのですか
ヒュー・ブラウン 幻冬舎紛争の根深い北アイルランドで、15歳でテロ組織に入りテロ行為と
資金集めの強盗など繰り返し刑務所に入った過去のある宣教師が
一生の布教の地に選んだのは日本だった!
おりしも神戸に赴任,阪神大震災も体験。
そんな著者の書く体験は大平光代氏の「だからあなたも生きぬいて」
のようなインパクトがある。ちなみにとても読みやすいので
中学生や小学生の高学年なら十分読めると思う北アイルランド問題は宗教問題ではない、と明言する著者
いかに宗教は紛争のプロパガンダに利用されやすいか、わかる
信仰を持つ人はその宗教の脆さをよく自覚して活動してほしい
同じようにテロ活動も不思議な思想の誘導があるんだなあと思った
強盗も「IRAから町を,国を守る為」と言う大義名分があれば
どんなことも平気で出来る。これはヤクザやカルトも同じような
思想になっていく。それにしても「なぜ人を殺してはいけないのですか」とは
タイムリーな。しかし紛争の続く世界の色々な国ではきっと
こんな問いを若者が言うんだろう・・・
「なぜ、人を殺さなくてはいけないのですか」と。毎日死んでゆく隣人や家族。殺す事が自国の為,自分の為。
そんな中,日本人の今の大疑問「人を殺していけない訳」は
彼等には理解できないだろう。死を望んではいない!と
彼等の叫びが聞こえるようだ。アフリカでも子どもたちが
ライフルをぶら下げて歩く光景は異様でない。
成人するまでに何人殺すのだろうか・・・・。
それを責める資格は日本人にはない・・・
2001/2/4パンク坊主宣言 蓮月 同時代社
買ったのは三年ほど前ですがどうも葬儀と法事続きで
寺,仏教に疑問の嵐なのでまた手に取ってみました蓮月さんは女性の住職でしかもバイセクシャル(異性・同性
どちらも性愛の対象ってこと)という事。だが素人にはイマイチわからない寺という所。檀家制度とかね、
でも彼女の本を読んでやはり今の寺って違ってる!と確信女の住職なんてとんでもない!と檀家の声もあったとか。
私は寺,檀家制度が地域の優劣の意識を生んでいると思います
墓を守るって何?時代と共に宗教は変わったらヘンですが
宗教の形骸化した行事や意識は変わっていいんじゃないですか?
生贄(人身御供)なんて今はしないでしょ?
それと同じに時代に合わない、あるいは変だと思いつつ
していた行事は止めましょうよ・・・お寺関係の方、どうですか?オウム,神戸の酒鬼薔薇事件,永山則夫死刑についてなど
社会問題を仏教者の視点から語っています。わかりやすいですよ
こういうアウト・ローな人お気に入りです
こういう説教は聴いてもいいな2001/2/5
女盗賊プーラン(上・下) プーラン・デヴィ 草思社
インドの下層カーストに生まれ村八分、虐待、レイプの果てに
盗賊団に拉致されやがて盗賊団を率いて,男たちへ復讐する
後に貧困層から支持を得て国会議員に転身したプーランの
実話。なお,彼女はカーストは最も醜い制度だと批判
仏教に転向している下級カーストは殺されてもいいようなひどい仕打ちが日常だ。
それを非人道的というだろう。しかし,本当は世界の国々が
心の底で思っている差別感をカースト制度は,表に出している
だけかもしれない。人の社会は残酷だプーランは議員になった今も字を書けないという
(勉強しているが子どもでないから覚えは難しいだろう)
この本は彼女の話をライターが書いたそうだ)差別を追いかけている時究極の差別であるカーストは
一考に値する。差別・貧困・国の低迷、どれも原因は同じ2001/2/5
自閉症だったわたしへ
ドナ・ウィリアムズ
新潮文庫
文字どうり自閉症だった著者が
自分を振り返って書いた本だが
やさしい両親の元で自閉症を克服したんじゃなく
不仲の父母,母親の暴力、などで
心身ともに傷つきながらも
社会性を身につけ,持ち前の感性を開花させてゆく
彼女は言う「暴力では決して私の心は傷つかない」
母親からの暴力も,教師からの体罰も
学校でのいじめも,体の暴力には屈しない。
もの心ついた頃から親の暴力を受けてきたから
色々な暴力に耐えられるのだと・・・。
彼女を傷つけるのはいつも「やさしさ」だった
やさしくしてくれるのに,他の子ともその子は
仲良くなり,自分は孤独。
やさしくしてくれる人も「よそのうち」
自分は自分の家に必ず帰るのだ・・・
彼女の見ていた世界は,ハタから見たら奇怪だ。
だがこの本を読んだら気づく。
感性と内面世界のすごさに。
人の声が聞こえないんじゃなく
自分の感性で見る世界に驚愕していたのだ。
五感で得たものを素直に取り込む事、
社会に適応すればそれは失われるのだ。
少し残っている人もいるんだけど。
すべては愛に
天才ピアニスト デヴィッド・ヘルフゴットの生涯
ギリアン・ヘルフゴット アリッサ・タンスカヤ
中埜有理:訳 角川文庫
映画「シャイン」のモデルとなった天才ピアニストの人生を
彼の妻となったヒリアンの手によって綴られた本である
(私は「シャイン」をまだ観ていない)
10代の頃から天才の異名を取ったデヴィッドであるが
彼は大変な「変わり者」であった(精神病院のケアを必要と
するほど)だかそれは彼の繊細さの表れで、彼の父親の
異常な愛情(?)と二面性で彼の精神を追い詰めてしまった
そんな気がする。父親もまた祖父からラビになるんだと
強制され苦労して手に入れたヴァイオリンを壊された
そうして自由に生きることを許されなかった父は
ラビになることも拒否。そして息子に夢を託したのか?
私には新鮮だった父子の確執。母親はあくまで子どもの守護者で
母性から出ることはなかなか無いが、父親は違うらしい
自分の体現者であるかのように、自分の道を、あるいは
自分のはたされなかった道を、息子に思い描く(そう?)
普通の人々もきっと、そうなんだろう
息子は父を追い、父は息子に追われることを喜ぶ。が・・・
同性としてライバルにもなり、ぶつかり合い、シットし合う
母子は永遠の親子だが、父子は永遠のライバル(かっこいい 笑)
デヴィッドの「普通ではない」行動は、例えば人へのサーヴィスで
楽しんでもらいたい、自分を好きでいて欲しいという心から
実に饒舌で相手が疲れるくらい話まくる。部屋は散らかり放題
色々と同居人がネを上げる行動は多い
でも、普通の行動、普通の人って一体どう言う人なんだろう?
普通という基準は言葉の上でしか存在しないのでは?
例えば身長190センチの人と140センチの人は
ヘンなんだろうか?そんなことは無い。どちらも平均身長からは
外れているが、ただの個体差である
子どもの発育の目安、とやらにもあるが平均とはあくまで目安で
そこからはみ出したからといって異常ではない
肉体では寛容になってきた世の中が精神面ではなぜか厳しい
自分が本当に普通なのか、だとすると何を基準にそう思うのか
普通であることで安心する日本人は「普通」が色々な意味で
免罪符となっている
本当は「普通」はつまらない事かもしれないのに・・・
ぼくらはみんな生きている 坪倉優介
18歳で交通事故にあい記憶喪失になった著者の記録
以前「奇跡の人」という小説を読んだが、現実の重さ、苦しさ
そして・・・素晴らしさはやはり体験記にはかなわないと思った
著者は自分の名はもちろん家族も友人も思い出せず
さらに学習してきた事も忘れたのは致命的だった
ごはんを見ても「初めて見る」ものであるし、切符の買い方も知らず
ひらがな、から字を覚えていく・・・成人のこんな学習は
子どもの何倍も大変だろう。それをフォローする母親・・・
いつも苦難に遭いそれを克服した人の影には家族がいる
母であったり妻であったり。私にできるかと思う。本当にすごい
一番辛いのは「自分」を思い出せないことだ
この頃の優介は、本当に十八年間の記憶を取り戻したくて 仕方がありませんでした。だから私は、昔にこだわるよりも、 今日から何かを始めればいいと言いました。でも優介は 「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、前に 進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」 と言うのです 母親の記憶 より |
なるほど、そうだと思った。私を形成しているうち記憶はもっとも
大きな比重を占める。小さな、大きな、データの積み重ねが私の
今を、ひいては未来を決める(考え方の元になる)
記憶を失ったら肉体は生きているが自我は死ぬという事か?
泣き笑いの記憶、息子を愛した記憶、息子の顔を見ても誰だかわからない
そんな自分になるのは「死」と言うことだ
人は「忘れて」生きている。そんなにたくさん覚えられないし
不要なものをわざと忘れているのかもしれない
しかし核となる記憶は生命線だ
しかし・・・
何年か前までは、昔の自分に戻りたくて仕方がなかった。(略) 今のぼくには失くしたくないものがいっぱい増えて、過去の十八年の 記憶よりも、はるかに大切なものになった。楽しかったことや、 辛かったこと、笑ったことや、泣いたこと。それらすべてを含めて、 あたらしい過去が愛おしい。 今いちばん怖いのは、事故の前の記憶が戻ること。そうなった瞬間に、 今いる自分がなくなってしまうのが、ぼくにはいちばん怖い。 |
まるで新しく生まれたような「新しい記憶を持った自分」
人は時間と共に大事なものが増えてゆく。そうして積み重ねがまた
新しい自分を作っている。再生?いや新生だ
記憶を失ったら死んだほうがまし、と思っていたけれど
きっとそう言う時生きる意味は必ず「やって来る」のだ
でも・・・やっぱ息子の事だけは忘れたくないなあ
自分のことを忘れたとしても・・・
*********
テレビで犯罪被害者遺族の視点から死刑を考えるというのを
やっていた。息子と見ていたら「ボクが悪い事をしたら死刑に
なってもいいと思う?」と言った
私は自分勝手だけど息子が悪いことをしても死刑にはなってほしくない
生きていてほしい、と言った。けれど命は命で償うべきだとも思う
だから、お詫びに息子の代わりに私が死んでおわび?
と話したら息子があせっていた(笑)まあ死刑になるような事を
しなければいいんだから、あせるなよ・・・
ところで、刑法は不思議だと思う。窃盗など殺人や傷害以外でも
重いと五年とか下るが殺人で情状ありで6,7年?
何だかヘン。お金は何とでもなるけれど(例え世界的文化遺産でも
モノはモノ)命は戻ってこないのだ。窃盗で死刑の国もあるというから
ヘン!(ただし貧しい国で窃盗は盗まれた家の飢えにつながる?など
日本と事情も違うだろう。でも貧しい国で盗まれる家はお金持ち
だろうから、金持ちの有利に法がなっているのかも)
で(長くなったが実はここから本題 笑)
死刑が残酷だと言うのであるが、懲役刑で更正できるとは思えないから
「記憶」破壊。自我の破壊、ってのはどうだろう?
まあ本当にそうなったら以前非難を浴びたロボトミー手術以上に
残酷なものだろうけど・・・それくらいしないと人は反省しない(?)
私はやはり遺族の悔しさを一番思う。囚人の人権保護というけれど
殺された人にはもう人権もないのだ・・・・
ひとが否定されないルール 妹ソマに残したい世界
日木流奈 講談社
脳障害児の著者は若干12歳。私の息子と同級生にあたる
その彼が特殊教育プログラムによりその秘めた知性を
示せる術を身につけ詩を書くようになり、色々なことを考え
語る、この本はそんな彼の今の思いを書いたものだ
まず彼の文章力の高さに驚く。息子になどとても書けない文章
(いや、私にも書けない)高い教育を受けた大人が書くような
表現。それが一般の障害児と呼ばれる人の手で書かれたことは
驚愕する。愛情深い両親、たぶん世間的には変わっていると
評価されそうな自由な考え方故に可能だった彼の才能の開花
彼ら家族がさらりと「自然に」接したことが
案外一般人にはムズカシイかもしれない
子どもが脳障害児だった、それだけでマイナスなイメージを
抱いてしまう。親が苦労するだとか、子どもの未来は大変だとか
しあわせかどうか、などと言ってしまいそうである
でも、あるがままを受けとめ自分への自信にする姿勢はすばらしい
ただ、どうしても私の疑問は残ってしまう。それは・・・
マスコミに登場もして知名度が上がった故に、彼の才能を
疑う人たちがいる、という残念なことである
それは彼の表現方法が母親の補助無くしては成立しないという
事による。彼が文字盤を指差す時は必ず母親が手を添えている
それは第三者には「母親がやっているのではないか」という
疑惑を抱かせるのだ。彼は文中そのことを残念がっている
あるがままの「事実」を受け入れて欲しいと願っている
私は彼のように知能の高い脳障害児はいると思うし
半分は彼という奇跡を信じてもいる。多くの障害児を持つ家庭に
希望を、夢を与えるすばらしい存在だ
例えば自閉症児に芸術分野などで特殊な驚異の才能が宿ることが
よく知られているし、人と違う体や脳だからこそ、天才の域に
達することができるのかもしれない。それはハンデではなく
恵まれた非凡な才能と言える
ひとめ見ただけで風景を写真のように記憶し絵に書ける才能や
数学に対する驚異的な能力、音楽・・・など彼らは日常生活や
社会生活で一般人のできることができなかったり大変だったりするが
そんなことはどうでもイイくらい有り余る才能がある
歴史上の偉人もそういうハンデがあった人が多いという説もある
しかし半分は純粋(単純)に疑問を持っている
彼の語る言葉が「彼のもの」かどうか、と言う事をだ。
母親の言葉ではないだろうか?という思いが少し残る
(彼がこんなことを聞けば悲しいとは思う。ごめんなさい)
親御さんがウソをついて息子を天才に仕立てているとは思えない
ただ自分だったらと想像すると、子どものケアに夢中になるあまり
息子の手に置いた自分の手が無意識に動いて言葉を綴ってしまう
と言う事もあるかもしれない。私はきっと狂喜するだろう
息子が語ったと!息子はすばらしい人間なのだと・・・
自分の手が無意識に動いていた事には気がつかずに・・・
彼の特殊プログラム(ドーマン法)と言うモノがかなり良くて
高い知性を引き出すのは彼だけではないらしいから
信憑性は高いのだろうが私には初めての話題だったので
すぐ真実だと受け入れがしにくい
オカルトや宇宙人のときと同じである
信じるだけの証明が欲しいと思ってしまう
そんな自分は人として純粋ではないのかもしれないが
科学的好奇心ゆえだと許して欲しい
今まで自分が学習した知識に合う説明を受けたいといつも思う
彼が自分だけの指の力で文字盤を指せたなら皆納得するだろう
彼がその高い知性を持つ故に人から疑問視されるならば
とても悲しいことだ。私もそんな愚か者のひとりなのだけど。
ただ、もしも彼の「親の語る言葉」だったとしても
私はそれは理解できる。子どもにかける夢、子どもを愛する気持ち
そのために世間を欺いても、それは罪ではない(私には)
美しい親からのメッセージだと私は受け入れられる
科学的に(医学?)彼の言葉のメカニズムは知りたいけれど・・・
いじわるな事を書いてしまったが、もちろん半分はこの奇跡を
信じているし、すばらしいと思う気持ちは半分で無く全部だ
彼のこれからの活躍を願っている
かもめの叫び エマニュエル・ラボリ 青山出版社
数年前にヒットした映画「愛は静けさの中に」を観た人もいるだろう
ろうあの主人公を演じた女優は自身もろうあ者であった
舞台版を演じたのが著者エマニュエル。本書が自伝である
(私は著者が映画の主役だったと、カンチガイしていた)
荒れた青春時代、万引き、刑務所の夜・・・意外な体験に驚く
が、中でも印象に残ったのは「手話の禁止!?」だった
口頭教育(唇を読む 読唇術のようなもの)が社会への参加と
考えていた学校などは多かった。何故なら大変の人は口頭で話すからだ
手話を知っている人口は(昔ならなお更)少ない
私がホテル時代仲間だった人は聴覚障害者で生まれつきなので
一度も音を聞いた事は無いと言う。ドントンという足を踏み鳴らす
ドアをばたんと閉める、などの振動は身体で感じるそうだが
鼓膜から流れ来る「音」とは何かわからないという
それでも、昔ろうあ学校では口頭に力を入れた。手話の方が
彼女らには楽であるが一般人との接点を無くさない為に
口頭教育は必要なのだ。実際仕事中彼女は「口頭」で話してきた
ガーガーとしか聞こえない事が多いが「声」を出してくれるから
何か話したい事があるのが、わかる。彼女は私の唇を読んでくれる
口頭・手話・筆談総動員で「話す」のである
手話と同じ位口頭も大事なのだ
手話を禁止と言うのはホテルの彼女も経験したようで聞いた事がある
昔は口頭が一番と言う方針もあったようだ
一方で手話ばかり使っていると、口頭が「めんどう」になり
唇の読み方が覚えられない、そこで一時「禁止例」が出たそうだ
手話を使うことで起こる差別を避ける意味もあった
電気仕掛けの耳なんていらない・・・という章もある
手術でキカイを埋め込めばもしかすると聴覚を獲得できる
かもしれない、という話しに著者はこう言い放った
フランスで1991年まで手話が正式な教育と認められていなかった
などと、私は全然知らなかった。何と言うことだ(日本では?)
耳の聞こえないことも個性である、それが私であると言い切る
あの五体不満足の、乙武氏のように自分の認識・確立ができている
一方で私は思う。障害者の成功例は一部の才能ある人のものであって
実際は大変な思いをしている。成功する事が幸せとはいわないが
差別の壁は「普通の」障害者たちには厚いはずである